斎藤環『生き延びるためのラカン』ちくま文庫、2012年.
精神科医、批評家の著者によるジャック・ラカンの思想の入門書。原書は二〇〇六年にバジリコより出版されている。解説を書いている中島義道氏によれば「日本一まともなラカン入門書」。文庫化にあたり、漫画家の荒木飛呂彦氏によるラカン肖像が表紙となっている。著者によれば、この表紙のおかげで本書は「世界一カッコ良い表紙のラカン本」となった。
言語とイメージの対比に関する部分のみ記しておく。
ラカンの有名なテーゼの一つに「無意識は言語として(のように)構造化されている」というものがある。無意識下のイメージでさえ言語的に構造化されているのである。
「フロイト‐ラカンの素晴らしさはまさにこの点にあるんだなあ。彼らは純粋なイメージなんてものは存在しなくって、イメージは常にシニフィアンから二次的に作り上げられるものだと考えている」(p.53)。
著者はこのように述べた後、空想のモンスターの造形でさえほとんど常に言語的操作によって作られることを指摘し、こう述べる。
「そんなわけだから、イメージの自由を強調したい人は、言葉に依存しない純粋なイメージの例をみつけなければならない。でも捜してみればわかると思うけど、そういうものは本当に少ないよ(*たとえばフランシス・ベーコンの絵画やデビッド・リンチの映画は数少ない例外で、そういう特殊なモンスター的イメージがよく出てくる。でも、後で説明するように、彼らはちょっと特殊な才能だからね)。学生時代にユングにはまったこの僕がいうんだから、間違いない」(p.55-56)。
では人がイメージを事実に近く受け止め、言語は虚構に近く受け止めるのは何故か。これはラカンの鏡像段階理論で説明できる。人間は鏡像を起点とする様々なイメージにだまされ続けているからである。
「自分のことを、鏡に映ったイメージで理解したつもりになった瞬間から、人間は「イメージ=実在物」という錯覚から逃れられなくなってしまった。どんなイメージも、それ単独では、事実として受け止められてしまいかねない。だから、それを虚構化するためには、言葉が必要なんだ。
言葉の支配から逃れたイメージは、それが事実とも虚構ともつかないために、危険きわまりないものになる。酒鬼薔薇事件の時の、あの声明文に付け加えられた風車みたいな図形とか、ちょっと前になるけど、校庭に机が「9」の字に並べてあった事件とか、ああいう得体の知れないイメージは、それだけで衝撃的だし、長く僕たちの記憶に残る。いずれも当初は、意味がわからない、つまり言葉と結びつきを持たないイメージだったわけだけど、まさにそのために、僕たちは強い不安をかき立てられたのだ」(pp.57-58)。
そして言葉が虚構的であるのは、言葉が存在の代理物だからである。たとえば幼児が「母親の不在」という現実を、「ママ」という虚構=言葉で覆い隠して安心する、というように。
「要するに、言葉=象徴を手に入れるっていうのは、そういうことなんだ。そばにママがいないという現実に耐えるために、「ママの象徴」でガマンすること。「存在」を「言葉」に置き換えることは、安心につながると同時に、「存在」そのものが僕たちから決定的に隔てられてしまうことを意味している。僕たちはこの時から「存在そのもの」、すなわち「現実」に直接関わることを断念せざるを得なくなったんだ。僕たちは「現実」について言葉で語るか、あるいはイメージすることでしか接近することができない。ラカンはこのあたりのことを「ものの殺害」なんて、ぶっそうな言葉で呼んでいる」(p.59)。
またベーコンやリンチ、吉田戦車の作品について著者は次のように説明している。
「彼らの作品には、まさに「何かそれ自体」としか言いようのないインパクトがある。これをラカン的に言い換えるなら、彼らにおいては、現実界と想像界が直接結びついている、ということになる。象徴界の介入を抜きにして、こういった結びつきが起こるとどうなるか。現実界は言葉という網の目をかけられることで、はじめて意味へと翻訳することが可能になる。この手続きがなされていないから、おそろしくインパクトのあるイメージが、彼らの作品にはしょっちゅう出現するわけだ。だからその印象を言語化したり、あるいはシンボリックに意味を解釈したりすることは難しい」(p.214)。
ちなみに「現実界」「象徴界」「想像界」とは、ラカンが用いた心のシステムの分類である。著者によれば、この分類を単純化して喩えると、『モンスターズ・インク』のようなCG映画において、画面上のイメージが「想像界」、イメージを作り出すプログラムが「象徴界」、プログラムが走るハードウェアが「現実界」ということになる。ただしこの三界には深浅の区別はなく、あるのは「見え方」の違いだけである(p.62-63)。また厳密には象徴界=言語の世界ではなく、言語のシニフィアン(=音)のつらなりが構造化したものが象徴界である。言語のシニフィエ(=意味)はイメージ的なものであって、想像界に属する。
2012/03/31
2012/03/28
若桑みどり『イメージの歴史』
若桑みどり『イメージの歴史』ちくま学芸文庫、2012年.
日本を代表する美術史家であった著者によるイメージ研究の入門書。原書は放送大学のテキストとして書かれ、二〇〇〇年に出版されている。この文庫版の帯には「新しい美術史の方法」と銘打ってあるが、原書刊行から十年以上経っており、また著者が故人となり新たな内容は加えられていないため、ここに書かれている内容はもはや必ずしも「新しい」とは言えない。とはいえ現時点においても一つの標準点として本書は役立つものと思われる。
著者によれば「イメージの歴史」とは、従来の「美術史」の領域と重なり合いつつ、それよりも広く多様な内容を含むものである。もっとも特徴的な違いとして「①広範な対象」「②超域的な方法」「③ポスト・コロニアルの見方」の三点が挙げられ、加えて「④ジェンダーの見方」の重要性が強調されている。
まず「①広範な対象」とは、絵画、彫刻、建築のような(美的な目的でのみ創造され、受容される)「純粋」で「高度」な芸術に限らず、大衆文化や複製芸術、記念碑、墳墓、庭園、祭り、行列、身振りや身体のあり方なども、「イメージ」によって表現されてきた人類の記録として研究の対象とするということであり、こうした広範な対象を研究するためには「②学際的、超域的な方法」(美術史に限らず、歴史学、社会学、宗教史、心理学、民俗学、文化人類学等々)が必要となる。著者自身が断っているように、このような考え方は斬新なものでも突飛なものではなく、現在ではむしろ当たり前のものである。「要するに美術をただ美のための閉ざされた世界として考えるのではなく、それを生産し、消費した社会全体と関連させて多角的に考えようということである」(p.13)。
次に著者は、ウォーラーステインの世界システム論やサイードのオリエンタリズム論を参照しつつ、「③ポスト・コロニアルの見方」を説明する。
「コロンビア大学の社会科学者イマニュエル・ウォーラーステインは地球的文脈と歴史的視野から発展の問題を考え、『近代世界システム』で、今日の世界経済は一五世紀の末までさかのぼること、この時代を、一六世紀と一七世紀に完全に発達し、産業革命以前にすでに成熟していた世界システムの始まりだと解釈した。つまり、一四五〇年から一五五〇年のあいだに封建制のシステム崩壊が起こり、一五五〇年から一六五〇年までに資本主義的世界システムはすべて基本的に整備され、一七六〇年から一八三〇年までの産業革命はそれを完成させたにすぎないと考えた。
あらゆる点からみてこの歴史観は妥当なものだと私は考えている。彼のいう「世界システム」とは、個々の国家や文明がその地域のなかで孤立して経済秩序をつくっているのではなく、地球上の国際的な経済秩序と国際的な分業を特徴として一つのシステムをつくっていることを意味している。このシステムでは、先達文明が中核となり、そのまわりに低開発の半周縁、周縁の領域を設けて、この中心が利益を得るために、周縁が搾取されるというやり方で機能する。近代史は世界の多くの部分がこのシステムに取り込まれていく過程であった」(pp.23-24)。
要するに近代史は、西欧を「中心」とし、その植民地をはじめとする他の地域を周縁とした世界システムの中で推移してきた。だが第二次大戦後、植民地の解放によって、西欧はその中心性を失い、同時にそれを支えていた「周縁」も理論上存在しなくなる。以後、世界はポスト・コロニアル(植民地以後)の時代に入る。そして、「世界を構成している多様な文明や人種のそれぞれの側の見方、考え方を同時に見ていくべきだという考え、特にかつての宗主国と植民地のかかわりのなかで、それぞれの固定した見方を壊し、新たな見方を提案していこうとする思考の方向、それをポスト・コロニアルの歴史観・文化観と呼んでいる」(p.27)。
こうした考え方は、現在では一般的なものだが、重要なのは「ほんとうに小さな一つのイメージの意味を知ろうと思ったときにも、実は、このような大きい歴史観や、社会観が決定的な考え方の「枠組み」となっている」(p.13)ということである。このような観点から「ジェンダーの見方」の重要性が強調されることとなる。
「賢明な読者には、歴史家が誰であるか、そして特に男女の性差文化(ジェンダー)について語る場合、語り手がどちらのジェンダーに立っているかを公正に判断し、すべてを批判的に受けとめることをすすめる。フェミニストのイデオロギーを男性が批判するとき、彼が男性中心主義のイデオロギーに立っていないと断言することはできない。万人にとって絶対の真理というものは、歴史記述の上ではあり得ない。海のような過去の出来事のなかから、歴史家はそれぞれそのもっとも重要だと信じるものを問題化するのである。ただし、ジェンダーの歴史は女性歴史家にしか語れないということは決してない。歴史的な事柄のなかで、男性と女性の社会的な役割や両性間の差別などを十分に考慮して調査を行うことは誰にでもできることである」(p.30)。
そして著者によれば、①から④のような新しい考え方の大きな特徴は、「ものごとには二つの面がある」ということ、「その間のさまざまな相互関係を発見すること」を試みることであるという。以上のような前提の上で、本編が語られることになる。
本編は理論編と実践編に分かれている。ここでは理論編について記しておく。
①新しい美術史の理論
著者によれば、美術史は歴史学の一分野であるが、イメージを単純に歴史記述の挿絵のように扱うことはできない。イメージのほとんどは、現実の記録や再現ではなく表象であり、表象とは観念の視覚化であるからである。この意味で美術史は文化史に属する。では文化とは何か。著者はピーター・バークの言葉を引いている。それは「基本的に書物や美術品や歌舞演劇に現れた態度・価値観、そしてそれらが表現ないし具体化されたものを意味している」。また文化が社会のなかで占める領域とは「想像的なものや象徴的なものの領域である」。そして特定の社会的現実として存在している事柄ではなく、想像されたものや象徴的なものを虚構のイメージによって表現することを「表象行為」または「表象」という。イメージは社会と不可分なものであり、過去の美術史のように卓越した芸術家や天才による純粋な「芸術」品のみを問題とすることはもはやできない。
著者は例として「芸術家とパトロン」「芸術家の階級性」「芸術家の思想や精神性」(イコノロジー)「下位(周縁)概念の登場 ―― 感性・身体・女・性・民衆・他者」といった観点を挙げている。これらの観点は現在では概ね一般化している。ここで重要なことは、著者が言うように「これが唯一で普遍の解釈である」という基準はないという認識である。
「何を重要とするかは歴史家によって異なってよい(……)それ一つで普遍的に問題を網羅できたり、真理を提示したりできるような、そういう歴史記述は存在しない。むしろ歴史家としてなすべきことは、対象となるイメージの主要な生産者、消費者の、時代、社会、階級、人種、性の「目」を獲得する、少なくとも、そう努力することである」(p.54)。
②イメージ生産の目的
著者によれば、人類とは視覚表象(visual representation)を生み出すという特異な特徴をもった動物である。人間がイメージを創り出す目的にはおよそ以下のものがある(これで全てが整理されるわけではなく、あくまで具体例)。①呪い(まじない)、②不可視のものの喚起、③表現されたものの権威化・栄光化と永続性、④歴史意識の増幅、⑤他者の創出、⑥欲望の喚起または昇華、⑦社会批判。
③イメージ解釈の方法 図像のコード
西欧文化においては、イメージを創り出す際、象徴を多用する伝統がある。この象徴主義の根底にはプラトン的観念論があり、見えているものを超えて、その奥にあるものを暗示するために象徴が用いられる。そこには伝統的なシステム、図像コードがあり、この伝統は概ね一八世紀まで型どおりに守られ、一九世紀にもこれを守る流派があった。二〇世紀には全てが転換し、視覚言語コードとしての定型図像は失われたが(著者はその大きな理由を社会と芸術の関係の変化に求めている)、本質的な部分は生き残った。イメージを解釈する際には、このある程度定型化した象徴システムを参照することができる(図像学、イコノグラフィー)。
④イメージ解釈の方法 表現様式
イメージの社会的コードである定型図像はある文化圏の中で幅広く、通時的に消費され続けるが、多くの場合、型は変わらなくても、その「表現の仕方」は時代によって絶えず変化する。一定の時代や社会ごとに、同一のテーマを表現する仕方が共通しており、また相互に他と区別される(いわゆる様式)。著者は様式について次のようにまとめている。
「様式とはものの表現の仕方のことで、線の具合から色調まで分類すれば無数の要素があるが、それらはすべて「目で見てわかる要素―視覚的要素である」である。イメージの分析は観察することにはじまるのである。ここではきわめて基本的な要素だけをとりあげよう。それは「空間(二次元的/三次元的)」、「視点(上から、下から、同水準から)」、「軸(左右相称/非相称)」、「主要人物の位置(正面性/非正面性)」、「色彩(明暗・陰影を含むか、含まないか)」、「人物(量的/輪郭線)」、「光源の有無」の六つである。これらの要素は見て明らかにわかる造型的要素であり、これによって画面のスタイルはほぼ決められる。画家はある一定の意図をもってこういう要素を用いてそのイメージを表現したのである」(p.147)。
様式の相違、変化については様々な要因が考えられる。図像の意味、様式の意味を画面内部ばかりではなく、絵画を成立させているあらゆる条件にわたって調査し、その意味を総合的に明らかにする方法を図像解釈学(イコノロジー)と呼ぶ。
著者は以上のような理論的前提の上で、「実践編」において膨大な量のイメージを取り挙げている。だが「AはBを(またはB’を、あるいはCをDをEを……)意味する」という思考形式は基本的に変わらないので必ずしも難解ではない。
また「実践編」全体を通してジェンダー的観点が強調されている。著者がジェンダー的観点を意識するようになった経緯は、最終章「二〇世紀の日本 東京の公共彫刻」で語られている。そのきっかけは、著者の勤務する大学の最寄り駅である総武線稲毛駅前に設置された裸婦像に、女子学生の一人が不快感と疑問を持ったことにあるという。著者によれば、こうした日本の公共空間に林立する意味のない裸婦像は、その意味の無さゆえに選ばれている。何気ない(はずの)裸婦像が、この著作の終点に位置している(イメージの意味をさぐる試みが意味の無さに辿り着く)という事実に何か意味をさぐるべきだろうか。
日本を代表する美術史家であった著者によるイメージ研究の入門書。原書は放送大学のテキストとして書かれ、二〇〇〇年に出版されている。この文庫版の帯には「新しい美術史の方法」と銘打ってあるが、原書刊行から十年以上経っており、また著者が故人となり新たな内容は加えられていないため、ここに書かれている内容はもはや必ずしも「新しい」とは言えない。とはいえ現時点においても一つの標準点として本書は役立つものと思われる。
著者によれば「イメージの歴史」とは、従来の「美術史」の領域と重なり合いつつ、それよりも広く多様な内容を含むものである。もっとも特徴的な違いとして「①広範な対象」「②超域的な方法」「③ポスト・コロニアルの見方」の三点が挙げられ、加えて「④ジェンダーの見方」の重要性が強調されている。
まず「①広範な対象」とは、絵画、彫刻、建築のような(美的な目的でのみ創造され、受容される)「純粋」で「高度」な芸術に限らず、大衆文化や複製芸術、記念碑、墳墓、庭園、祭り、行列、身振りや身体のあり方なども、「イメージ」によって表現されてきた人類の記録として研究の対象とするということであり、こうした広範な対象を研究するためには「②学際的、超域的な方法」(美術史に限らず、歴史学、社会学、宗教史、心理学、民俗学、文化人類学等々)が必要となる。著者自身が断っているように、このような考え方は斬新なものでも突飛なものではなく、現在ではむしろ当たり前のものである。「要するに美術をただ美のための閉ざされた世界として考えるのではなく、それを生産し、消費した社会全体と関連させて多角的に考えようということである」(p.13)。
次に著者は、ウォーラーステインの世界システム論やサイードのオリエンタリズム論を参照しつつ、「③ポスト・コロニアルの見方」を説明する。
「コロンビア大学の社会科学者イマニュエル・ウォーラーステインは地球的文脈と歴史的視野から発展の問題を考え、『近代世界システム』で、今日の世界経済は一五世紀の末までさかのぼること、この時代を、一六世紀と一七世紀に完全に発達し、産業革命以前にすでに成熟していた世界システムの始まりだと解釈した。つまり、一四五〇年から一五五〇年のあいだに封建制のシステム崩壊が起こり、一五五〇年から一六五〇年までに資本主義的世界システムはすべて基本的に整備され、一七六〇年から一八三〇年までの産業革命はそれを完成させたにすぎないと考えた。
あらゆる点からみてこの歴史観は妥当なものだと私は考えている。彼のいう「世界システム」とは、個々の国家や文明がその地域のなかで孤立して経済秩序をつくっているのではなく、地球上の国際的な経済秩序と国際的な分業を特徴として一つのシステムをつくっていることを意味している。このシステムでは、先達文明が中核となり、そのまわりに低開発の半周縁、周縁の領域を設けて、この中心が利益を得るために、周縁が搾取されるというやり方で機能する。近代史は世界の多くの部分がこのシステムに取り込まれていく過程であった」(pp.23-24)。
要するに近代史は、西欧を「中心」とし、その植民地をはじめとする他の地域を周縁とした世界システムの中で推移してきた。だが第二次大戦後、植民地の解放によって、西欧はその中心性を失い、同時にそれを支えていた「周縁」も理論上存在しなくなる。以後、世界はポスト・コロニアル(植民地以後)の時代に入る。そして、「世界を構成している多様な文明や人種のそれぞれの側の見方、考え方を同時に見ていくべきだという考え、特にかつての宗主国と植民地のかかわりのなかで、それぞれの固定した見方を壊し、新たな見方を提案していこうとする思考の方向、それをポスト・コロニアルの歴史観・文化観と呼んでいる」(p.27)。
こうした考え方は、現在では一般的なものだが、重要なのは「ほんとうに小さな一つのイメージの意味を知ろうと思ったときにも、実は、このような大きい歴史観や、社会観が決定的な考え方の「枠組み」となっている」(p.13)ということである。このような観点から「ジェンダーの見方」の重要性が強調されることとなる。
「賢明な読者には、歴史家が誰であるか、そして特に男女の性差文化(ジェンダー)について語る場合、語り手がどちらのジェンダーに立っているかを公正に判断し、すべてを批判的に受けとめることをすすめる。フェミニストのイデオロギーを男性が批判するとき、彼が男性中心主義のイデオロギーに立っていないと断言することはできない。万人にとって絶対の真理というものは、歴史記述の上ではあり得ない。海のような過去の出来事のなかから、歴史家はそれぞれそのもっとも重要だと信じるものを問題化するのである。ただし、ジェンダーの歴史は女性歴史家にしか語れないということは決してない。歴史的な事柄のなかで、男性と女性の社会的な役割や両性間の差別などを十分に考慮して調査を行うことは誰にでもできることである」(p.30)。
そして著者によれば、①から④のような新しい考え方の大きな特徴は、「ものごとには二つの面がある」ということ、「その間のさまざまな相互関係を発見すること」を試みることであるという。以上のような前提の上で、本編が語られることになる。
本編は理論編と実践編に分かれている。ここでは理論編について記しておく。
①新しい美術史の理論
著者によれば、美術史は歴史学の一分野であるが、イメージを単純に歴史記述の挿絵のように扱うことはできない。イメージのほとんどは、現実の記録や再現ではなく表象であり、表象とは観念の視覚化であるからである。この意味で美術史は文化史に属する。では文化とは何か。著者はピーター・バークの言葉を引いている。それは「基本的に書物や美術品や歌舞演劇に現れた態度・価値観、そしてそれらが表現ないし具体化されたものを意味している」。また文化が社会のなかで占める領域とは「想像的なものや象徴的なものの領域である」。そして特定の社会的現実として存在している事柄ではなく、想像されたものや象徴的なものを虚構のイメージによって表現することを「表象行為」または「表象」という。イメージは社会と不可分なものであり、過去の美術史のように卓越した芸術家や天才による純粋な「芸術」品のみを問題とすることはもはやできない。
著者は例として「芸術家とパトロン」「芸術家の階級性」「芸術家の思想や精神性」(イコノロジー)「下位(周縁)概念の登場 ―― 感性・身体・女・性・民衆・他者」といった観点を挙げている。これらの観点は現在では概ね一般化している。ここで重要なことは、著者が言うように「これが唯一で普遍の解釈である」という基準はないという認識である。
「何を重要とするかは歴史家によって異なってよい(……)それ一つで普遍的に問題を網羅できたり、真理を提示したりできるような、そういう歴史記述は存在しない。むしろ歴史家としてなすべきことは、対象となるイメージの主要な生産者、消費者の、時代、社会、階級、人種、性の「目」を獲得する、少なくとも、そう努力することである」(p.54)。
②イメージ生産の目的
著者によれば、人類とは視覚表象(visual representation)を生み出すという特異な特徴をもった動物である。人間がイメージを創り出す目的にはおよそ以下のものがある(これで全てが整理されるわけではなく、あくまで具体例)。①呪い(まじない)、②不可視のものの喚起、③表現されたものの権威化・栄光化と永続性、④歴史意識の増幅、⑤他者の創出、⑥欲望の喚起または昇華、⑦社会批判。
③イメージ解釈の方法 図像のコード
西欧文化においては、イメージを創り出す際、象徴を多用する伝統がある。この象徴主義の根底にはプラトン的観念論があり、見えているものを超えて、その奥にあるものを暗示するために象徴が用いられる。そこには伝統的なシステム、図像コードがあり、この伝統は概ね一八世紀まで型どおりに守られ、一九世紀にもこれを守る流派があった。二〇世紀には全てが転換し、視覚言語コードとしての定型図像は失われたが(著者はその大きな理由を社会と芸術の関係の変化に求めている)、本質的な部分は生き残った。イメージを解釈する際には、このある程度定型化した象徴システムを参照することができる(図像学、イコノグラフィー)。
④イメージ解釈の方法 表現様式
イメージの社会的コードである定型図像はある文化圏の中で幅広く、通時的に消費され続けるが、多くの場合、型は変わらなくても、その「表現の仕方」は時代によって絶えず変化する。一定の時代や社会ごとに、同一のテーマを表現する仕方が共通しており、また相互に他と区別される(いわゆる様式)。著者は様式について次のようにまとめている。
「様式とはものの表現の仕方のことで、線の具合から色調まで分類すれば無数の要素があるが、それらはすべて「目で見てわかる要素―視覚的要素である」である。イメージの分析は観察することにはじまるのである。ここではきわめて基本的な要素だけをとりあげよう。それは「空間(二次元的/三次元的)」、「視点(上から、下から、同水準から)」、「軸(左右相称/非相称)」、「主要人物の位置(正面性/非正面性)」、「色彩(明暗・陰影を含むか、含まないか)」、「人物(量的/輪郭線)」、「光源の有無」の六つである。これらの要素は見て明らかにわかる造型的要素であり、これによって画面のスタイルはほぼ決められる。画家はある一定の意図をもってこういう要素を用いてそのイメージを表現したのである」(p.147)。
様式の相違、変化については様々な要因が考えられる。図像の意味、様式の意味を画面内部ばかりではなく、絵画を成立させているあらゆる条件にわたって調査し、その意味を総合的に明らかにする方法を図像解釈学(イコノロジー)と呼ぶ。
著者は以上のような理論的前提の上で、「実践編」において膨大な量のイメージを取り挙げている。だが「AはBを(またはB’を、あるいはCをDをEを……)意味する」という思考形式は基本的に変わらないので必ずしも難解ではない。
また「実践編」全体を通してジェンダー的観点が強調されている。著者がジェンダー的観点を意識するようになった経緯は、最終章「二〇世紀の日本 東京の公共彫刻」で語られている。そのきっかけは、著者の勤務する大学の最寄り駅である総武線稲毛駅前に設置された裸婦像に、女子学生の一人が不快感と疑問を持ったことにあるという。著者によれば、こうした日本の公共空間に林立する意味のない裸婦像は、その意味の無さゆえに選ばれている。何気ない(はずの)裸婦像が、この著作の終点に位置している(イメージの意味をさぐる試みが意味の無さに辿り着く)という事実に何か意味をさぐるべきだろうか。
総武線稲毛駅前 |
2012/03/15
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