2014/03/06

松宮秀治『ミュージアムの思想』

松宮秀治『ミュージアムの思想』白水社、2003年.













 帯に曰く、

「ミュージアムとは何か ミュージアムとは、美術館、博物館にとどまらない広領域の概念であり、西欧近代のみが創り出しえた全世界の一元化をめざす思想である。本書は新しい視点からミュージアムをとらえ直す刺激的な論考」。

「今日ミュージアム的なタブーが適応されるものに、花、樹、湿地、家屋、都市、さらに人間がある。最も想像力に富んだひとでさえ、その行きつく先を測定しえないほどである ―― エルンスト・ユンガー(本文より)」。

序章 ミュージアムとは何か

「西欧のミュージアムとはこのように広領域の概念である。そしてその概念は今なおその概念を拡大させていこうとする潜勢力を秘めた動力学的なものである。その潜勢力は全世界を自己の裡に取り込み、世界を所有しようという一種暴力的な危険性を裡に秘めた概念である。いうなればそれは全世界を西欧の「世界システム」に組み込んでしまおうとする西欧イデオロギーである」(10

「ミュージアムとは西欧近代のみが創り出しえたもっとも西欧的な「思想」であるが、同時にもっとも西欧イデオロギーを感じさせない、きわめて巧妙な「制度」である」(11)。

「ミュージアムという思想が「攻撃性」と「暴力性」をもつものであるということは、ミュージアムを成立させている科学、技術、文明、歴史、文化、芸術という西欧近代の創出した価値そのものが、それぞれに西欧中心の価値体系として世界の一元的整序を最終目的としているということである。そしてミュージアムの基本となっている「コレクション」という行為に公的価値を賦与し、コレクションという行為を単なる「ものを蒐める」という私的領域に閉じ込めずに、ものを蒐めることによって世界を所有するという政治的行為に転換させてきたこと自体も、ミュージアムの思想が攻撃性と暴力性と不可分に結びついたものであることを意味する。ただしここでいう攻撃性、暴力性とは具体的な暴力行為を伴うものではなく、むしろ病原菌の作用のようなそれである」(13)。

「ミュージアムとはその機能から見れば、西欧の近代が新たに発見した価値観念、つまり「芸術」「文化」「歴史」「科学」といった観念によって、新しい「聖性」を創出し、その聖性のもとで新しい「タブー領域」を確定していくものであり、そのもっとも基本的な特徴は、この聖性の領域とタブー領域をたえず拡大し、巨大化させていくことである」(14)。

「西欧におけるコレクションの制度化の歴史とは秘匿されていたコレクションを開示することによって「蒐める」という行為を文化の枠組みのなかに取り入れていったプロセスである。それは正倉院のコレクションのように「集まったもの」を保持していく営みではなく、「蒐める」行為そのものを持続化させる営みである」(16

第一章 コレクションの制度化

「[……]実際は帝国主義がミュージアムと創り出したというより、ミュージアムの思想とそれを生み出した西欧のコレクションの制度化という思想がむしろ帝国主義を生み出したといった方がより精確な認識といえるのである」(26)。

 「西欧のコレクション史研究者たちは、ポミアンの『コレクション ―― 趣味と好奇心の歴史人類学』の強力な影響のもとで、西欧の十六、十七世紀のコレクション文化を「好奇心の文化」と規定し、それに「帝国」「支配」のタームを巧妙に結びつけようとしてきている。そうすることで彼らは自分たちが新しい「文化帝国主義」のイデオローグになっていることに気づいていないようである。
 彼らは、ヨーロッパ人の「好奇心の文化」の連続性を西欧世界の絶対的優越性から説明し、そしてそこからひとつの結論を見出そうとしているように思われる。この連続性を承認することは、彼らが無意識のうちに「文化帝国主義」に陥っていることを意味する。なぜなら、「キャビネット」、つまりクンストカンマーとヴンダーカンマーはきわめて特殊西欧的な制度であり、ミュージアムの思想もこれまたきわめて特殊西欧的な制度であり、その個別的で特殊な制度と思想を「宝物室」という普遍的なものと接続することで一般化し、普遍化する思考から抜け出ていないことをはっきり示しているからである」(30)。

 「わたしたちは、そろそろ「美術」中心のルネサンス観を改めるべきである。[……]
 わたしたちがルネサンス、さらには宮廷コレクションの等身大の像を得たいなら、今日的な「芸術」観念の逆投射はやめて、図書蒐集と学芸保護に目を注ぐべきである。そうしないと、なぜ人文主義者たちの古代文献の蒐集が宮廷やヴァチカンの図書蒐集と結びつき、さらには公共図書館の設立と結びつくのか、またミュージアムの公開性の原則という思想がどこから来ているのかを見定めることができなくなってしまう。美術作品と注文者(保護者)との関係は、私的領域に閉じこめられたものであったが、図書の蒐集は単なる私的領域を超えた広いネットワークの中でなされる、一種の「公共事業」という性格を当初からもっていた」(47)。

「ヨーロッパの宮廷コレクションは、君主制の理念が地域国家の首長、つまり貴族の中の第一人者であることに充足していたときは、「宝物室(庫)」的な性格をもち、蒐集物は臣下や他国からの献上品、戦利品といったコレクションの祖型を基礎に、図書、古代遺物といった時間軸にそった価値物の蒐集に中心が置かれていた。それがカール五世の帝国が新大陸をその領土に含めてくると、宮廷コレクションの中心には珍奇物、異国物といった世界の驚異の認識といった空間軸へとその蒐集が切りかえられ、その蒐集が「世界の支配(掌握)」と同義となる理論形成が行われるようになった」(78)。

 「ヨーロッパ以外の文化圏は、例えばイスラム教文化圏、仏教文化圏、儒教文化圏はそれぞれにコレクションのもつ危険性を認識していた。だからそれを墳墓、宝物庫、神社仏閣の神聖領域に閉じ込めるか、または中国のように「王は玉を蒐め、、臣は石を蒐む」というように蒐集の対象をきわめて限定した範囲に制限した。「文房四宝」とか「書画骨董」という概念もコレクションの範囲限定からでてきたものである。「玩物喪志」とはまさにコレクション否定そのものの思想である」(80

 「「蒐集」は歴史的にみても。意味論的にみても、神話世界に属するものである。蒐集の原初的形態が、副葬品、奉納品、贈与品、戦利品、聖遺物、君主の財宝というかたちをとってきたのは、それ自体が神話への奉仕と神話の管理を目指すものだからである。だが「蒐集」がさらに大きな威力を発揮するのは、古い既存の神話、古い神話体系に奉仕するときではなく、それ自体が新しい神話を創出してくるときである。[……]その意味で「蒐集」とは、単にものを集めるという行為ではない。それは「もの」に意味を与える行為である。いいかえれば新しい象徴体系の構築であり、新しい神話の創出へつらなる行為である」(84)。

第二章 コレクションと帝国理念

「コレクションとはその原初的な祖型に遡って考えてみても権力の象徴という役割を担わされたものであった。コレクションの制度化はそれをさらに一歩すすめ、より自覚的に象徴物に転化し、体系化することによって権力を権威化していくプロセスといえる。権力は自らの持続をはかるとき、直接的な物理的強制力を可能なかぎり隠蔽し、それを権威による民衆支配の装置として拡大化させようとする。いうなれば権力はその主観的欲求を集団的欲求に客観化し、合理化しようとする。支配というものが特定の人間集団において服従を見いだす営為であるかぎり、権力支配は直接的な武力による支配のみではその持続をはかれない。権力の正統性を保証するのは、権力でなく権威である。したがって権力はつねにその正統性を保証するために権力の権威化を同時にはかってゆかねばならない。権力の権威化は、神話、プロパガンダ、シンボルの体系化という手段を通じて行われる。古代文明に見られるように宗教的権威と世俗的権威(政治権威)の間に分裂の見られない神権政治体制は、権力と権威の統一を巨大モニュメント、特に巨大墳墓や巨大寺院で集中的に表現することができた。それに対し、世俗権威と宗教権力が分立した西欧の皇帝権力は、その空洞化の中で政治権力と政治的権威をも分裂させてしまった。いうなれば複合的分裂の中で皇帝権が再び権力と権威をとりもどすためには、他の文化圏には独自の政治手法をあみださなくてはならなかった。[……]
その独自の政治手法のひとつがコレクションの制度化と政治のスペクタクル化(政治の演劇化)である。いうなれば、政治を視覚化する手法である。人文主義的な古代遺物と古写本の蒐集が世界を項目別に分類、体系化する百科全書的な蒐集に劇的に変化し、小宇宙としてのクンストカンマーを形成してくるのは、中世の伝統的な宮廷祝祭が、壮麗な祝祭芸術にまで変貌していった時期、つまり十六世紀初頭におけるハープスブルク朝の世界帝国化とそれと軌を一にして生まれた帝国理念の出現の時期と重なりあっている」(91-92)。

 「ルネサンスの時代とは古代が復活、再生した時代といわれる。だがこのようないい方は不十分なだけでなく、混乱の原因となる。いかなる過去の時代も、過去の人物と同様、自ら復活し再生することはない。それはさせられるのである。[……]ルネサンスとは人文主義活動を通じて、古代を蘇らせることによって、宗教改革が結果的に招いてしまった地域主義にキリスト教的な普遍主義とは異なった原理を注入することによって、新しい「帝国」理念の可能性を示したものと再解釈できる。
 西欧の美術史のつくりあげたルネサンス・マニエリスム・バロックという様式史的な時代区分は、芸術作品の発展を政治史から切り離し、ヨーロッパ史に一貫する「帝国」理念の存在を隠蔽してしまうことになる。様式史とは「芸術」を新たな神話として自律化させようという十八世紀後半以後の市民社会のイデオロギーから生まれたものであるので、われわれはそのイデオロギーの根底を見据えて、様式史的な差異よりも近代以前の芸術がいかに権力に「奉仕」していたかということの一貫性を追わなくてはならない。そのあとに続くロココも新古典主義もロマン主義も「帝国理念」と無縁ではなく、それらはまさにこの「帝国理念」をめぐっての内部抗争の諸局面を表わすものである。
 のちにもうすこし深く「美術史」という学問に立ち入ることになるが、これは決して中立的な学問ではない。それはミュージアムという思想と近代の国民国家がそのイデオロギーを隠蔽し、「芸術」という西欧イデオロギーを中立化し、普遍化していくことに荷担している、侵略性や攻撃性を内在させた学問である。
 わたしたちは「芸術」という概念を普遍的価値とみる見方をできるだけ早く捨て去るべきである。そうしないとヨーロッパという地球上の一地域を普遍化し、それが相対的な一地域であることを忘れてしまう。「芸術」という概念はいまや制度疲労があらわになった概念なのである。現代の日本の「日本画」が世界的な次元ではいまだ日本的「手仕事」にとどまるものであるとするなら、ピカソやルノワールの絵画も西欧的な「手仕事」にすぎない。その手仕事を芸術の領域に聖別化していくのが、ミュージアムの機能である。
 西欧のミュージアム制度の中で最も突出した力を発揮したものが「美術館」機能である。この美術館という新しい神殿は、「芸術」信仰の中心地となって、美術史学という新しい神学を組織させ、美術史家、美術評論家という新しい司祭階級を生み出してきた。そしてこの司祭たちは、絶対主義王政期のクンストカンマーとヴンダーカンマーを混乱と無秩序と不合理の支配する世界として解体、崩壊させ、その中から「美術」のみを救出した。その結果、その時代にあっては手仕事の職人であった者が、「芸術家」としてその時代にあっても眩しいほどの輝きを放っていたという幻想を振りまいてしまった」(106-107)。

 「芸術と権力とは本質的に相容れないものである、芸術は本質的に反体制的である、というのは近代の芸術観がつくった神話であり、幻想である。したがってこの幻想を旧体制の絶対主義王政時代に再投入するのは、誤りである。そもそも彼らは現代の「芸術」という観念とは無縁の観念体系の中に生きていた。現代の芸術の観念を過去にもちこめばもちこむほど、芸術という観念は現実的な力を喪い、「芸術」という制度を加速度的に疲労させてしまう。芸術研究は古いパラダイムを捨て、新しいパラダイムを求めなければならない。
 新しいパラダイムは、まずヨーロッパの「芸術」観念を相対化し、つまりヨーロッパという一地域の思想として相対化することで、「西欧芸術」を美術史という学問の規範価値としないことをほぼなしとげた時点で出現してくるだろう。
[……]絶対主義王世期の、現代の観念でいうところの「芸術」は、権力との共存なくしては、原理的に存在しえなかった。それは権力の強制に服するというより、ギルド的制約とキリスト教的制約からの解放であった。宮廷の要請に応えることは、彼らにとって権力への「奉仕」ではなく、「共同事業」を意味した。したがって彼らに不本意や屈辱というものがあるとしたら、それはその共同事業への参画を許されないか、あるいはその仕事に対する代価が過少と思われるときであった」(108-109)。

第三章 ミュージアムの思想

 「本書はこれまでヨーロッパにおけるコレクションの制度化と近代ミュージアムの思想の成立過程を、ヨーロッパにおける「帝国理念」の展開のプロセスに対応させて論じてきた。このような論述の方法はややもすれば、かつて流行したヨーロッパ帝国主義批判の常套的な手法に寄りかかったイデオロギー暴露と誤解されかねない。本書のこれまでの論述でそれが意図ではないことはおわかりいただけると思う。わたしの真の意図はミュージアムを通じて「西欧」とは何か、「近代」とは何かを考えてみたいということである。なぜミュージアムであるかといえば、そこにわれわれの意識の盲点が集中しているように思われたからである。そしてもうひとつは、西欧のミュージアムの思想が普遍的価値として非西欧圏においても、無批判に西欧のそれと等価物のものであるとみなされている現状には批判的でありつづけたいと思っているからである。なぜなら西欧のミュージアムの思想を成立させてきたのは、「科学」「技術」「芸術」「歴史」「文化」という観念であるが、この観念に特別な価値を賦与していったのが「近代」というこれまた特別な価値を賦与された観念であったからである。「近代」が「ミュージアム」を自己のうちに取り込み制度化していったということは、「科学」「技術」と結びつく進歩主義と、「芸術」「歴史」「文化」と結びつく保守主義の分極化を阻止することにつながる。これはまたさらに一歩すすめて、「科学」や「芸術」にそれぞれ自律的価値を主張させることで、それぞれが中立的な価値であり、イデオロギーとは無縁なものであると思わせ、最終的に「近代」を脱イデオロギー化させる一種のイデオロギー隠蔽装置をつくりだしたということである。
 それ自体がイデオロギーでありながら、イデオロギーであることを隠蔽してしまう「ミュージアム」とはいったい何なのだろうか」(193-194)。

 「ポミアンのいうようにミュージアムを教会に代わる新しい祭式施設と考えるのは、きわめて妥当な考え方である。そこで執行される祭式とは、「国家が国家自身に捧げる恒常的な敬意」を表現するものでなければならない。なぜなら古い祭式にとって代わる新しい祭式とは「国家が同時に主体となり客体となるような祭式」であるからだ。国家が主体であり客体であることが同時に可能であるということは、「国家」価値以上の権威体系の構築を不可能にし、また不必要なものにしてしまうということである。いうなれば国家領域の中に宗教の活動範囲を許さず、宗教の活動の領域を個人の良心あるいは社会の価値規範の領域に閉じ込めることを意味する。いうなれば政教分離達成の記念碑がミュージアムということになる」(203

 「西欧の近代思想がキリスト教の手法を自己の裡に取り込んだということは、キリスト教が中世初期にゲルマン世界に浸透していくとき、「聖遺物」の信仰という手法を創り出したように、近代思想も近代の「聖遺物」を創り出したということである。ミュージアムとは近代の「聖遺物」の保管所である。[……]
[……]ミュージアムが近代の聖遺物の保管所であるとすると、そこに保管されている聖遺物とは、ユネスコのミュージアム規約がいっているように、「芸術的、歴史的、科学的、技術的な事物のコレクション」ということになるが、それは一種宗教にも似た「近代」という教義が独自の理論で生み出した「習合観念」の産物である」(204-206)。

 「近代の「聖遺物」の集積場、保管所であるミュージアムが、そのコレクションを「何よりもまず公衆のレクリエーションと啓蒙のために展示することを目的」とする施設と定義されるのは、ミュージアムの裡で「近代」と「反近代」、「進歩」と「保守」が相反撥しながらも奇妙な共存と融合をはたしている状況を独自のレトリックで表現しているものといえる」(208)。

 「現代の「美術館」における最大の機能のひとつは、収蔵され展示されている作品がすべて「本物」であるという神話を創り出したことである」(229)。

 「新しい伝統の創出とは、新しい象徴体系の創出であるが、フランス革命ほど徹底して、この象徴的枠組みの形成に熱意を示した時代や国民はほかになかったといえる、それはフランス革命が「芸術」を教化的な機能として社会化する政治手法に最も敏感であったことに原因がある。[……]フランス革命の政治手法は決して新しいものではなかったが、その政治的な意義が大きいのは次の点にある。それは絶対主義王政が「宮廷祝祭」と「クンストカンマー」「ヴンダーカンマー」によって、王権の神話的な権威を創出していったのに対して、フランス革命は「革命祭典」と「ミュージアム」によって、王権の神話的な権威を破壊し、新しい「国民の歴史」の神話を創出したということである。現在では「一国史」のナショナリズムのイデオロギー性は十分に自覚されているのであるが、フランス革命のミュージアムの思想と政策が、ナショナリズム思想だけでなく、帝国主義的な思想も同時に発展させていることにも注意がはらわれなくてはならない」(241

終章 ミュージアム思想の拡がり

 「「ミュージアム」の本質には、十分には説明しえないが、何か必ず死を連想させるものが潜んでいる」(253)。

 「ミュージアムが死のメタファーで語られ、死の連想を呼び起こすのは、おそらくそれが近代の新しい「死者礼拝」の場であることに原因があるのでないかということである。ミュージアムはすでに見てきたように近代の新しい「宗教」であり、新しい「神殿」である。それは死者たちによって生きているものたちを支配する装置であるといえる。「芸術」「歴史」「文化」の観念系につらなるすべてのミュージアムは、すでに死せるものたちを礼拝し、その礼拝の儀式を通じて生きているものたちすべての行動規範を創り出す、いうなれば歴史の管理装置である[……]
しかし、ミュージアムと墳墓の死者礼拝における類似性を指摘することそのものが重要なのではない。重要なのは、その死者礼拝と死者の一種の神格化が及ぼす影響力とその範囲を測定することである。それはもはやメタファーでは語りえない。なぜならメタファーで語ることのできる範囲は、その類似性だけにとどまらざるをえないが、古代の死者礼拝と近代のミュージアムの死者礼拝は、より具体的にその差異において語られることが重要だからである。
[……]近代のミュージアムの死者礼拝は、人間という範囲を超えて、「もの」にまで拡大され、その「もの」の範囲さえも測定しえない広がりを見せている。それがユンガーのいう「ミュージアム的衝動」というものであるが、この衝動は、一種の破壊力として、「もの」をその本来的な生から生かされた「仮死の生」の中に移し替えてしまうのである。このことは古代の死者礼拝の中にあった神話的な「死と再生」の連鎖を断ち切り、人為的な「死と再生」の新しい連鎖を創り出すことを意味する。
[……]あらゆるものを人為的に死に至らしめるか、あるいは仮死の状態に至らしめ、それを新たに再生させることこそがミュージアムの思想の最も本質的な部分がもつ「死」の思想である」(254-256)。

 「[……]パキスタンのイスラム原理主義者たちによるバーミアンの石仏破壊なども、西欧の新しい神のひとつである「芸術」という思想に対する否認を意味している。[……]
[……]たとえば、日本の首相や政府要人がアメリカ合衆国を訪問すれば、必ずアーリントンの無名戦士の墓地を表敬訪問し、献花するが、アメリカの大統領だけでなく諸国の国家元首が日本を訪問しても、靖国神社に参拝しないのはなぜか。それは無名戦士の墓地が思想的に完全に宗教から切り離され、ミュージアムの思想下に入っているのに対し、靖国神社が名目上は社団法人であるにもかかわらず、思想的に完全に「国家宗教」に属していることを全世界が熟知しているからである。ということは日本の政教分離が見せかけだけのものであって、いつまた天皇を神とする祭政一致を復活させるかわからないという疑念を与え続けているからである。[……]
 バーミヤンの石仏破壊と靖国参拝はまったく別問題であるように考えられるかもしれないが二つは「ミュージアム」という思想を通じてみれば、まったく同一次元の問題である」(261-262)。

「結論からいえば、西欧におけるミュージアムの思想のいう「保存」と「保護」とは、「破壊」を正当化するイデオロギー的主張のことである。破壊という言葉が穏当性を欠くなら、人為的再整序、強制的再移転といいかえてもよい」(266)。

「西欧におけるミュージアムの思想とは、「科学」と「技術」という観念系の価値によって自然を支配し、「歴史」「文化」「芸術」という観念系の価値においては精神を支配する、つまり西欧的な価値を強制する思想である。そしてこれらの諸観念の価値を育てたのは西欧近代の「市民」社会のイデオロギーであるが、このイデオロギーは政治的には「民主主義」と「自由主義」を、経済的には自由競争を原則とする「資本主義」の思想を分かちがたく結合しているのである。
 「ミュージアム」は静寂が支配し、教養人に魂の安らぎを与え、信仰心にも似た美的畏敬の念を与える芸術作品だけによって満たされている空間ではない。「ミュージアム」とはたとえそれがほんの一部にすぎない「美術館」であっても、その見せかけの静力学的背後にとてつもない衝動力を隠し持った動力学的な装置である。「欲望」の解放を原理とする西欧のミュージアムの思想を、いったん受け入れてしまえば、後発国は西欧以上の「欲望」の解放を推し進めなくてはならない。この「欲望」とは政治的用語に置き換えれば、自由主義、あるいは民主主義の根底を支える情念のことであり、経済学的にいえば資本主義経済を支える自由競争の情念である。ミュージアムの思想の文脈でいえば、伝統的な国家宗教の「聖域」を残しておかないという意志である。もし、どの後発国であってもこの思想の中途半端な受け入れ方を続けていれば、「ミュージアムの思想」の側からか、あるいは「伝統的な聖性」(国家宗教)側のいずれかから攻撃されることになるであろう。
 さらに、中途半端な制度だけの外形的模倣は「公開性」の原則の思想をねじ曲げ、「保護」を非公開とする秘匿にすり替え、公共圏の成立を妨げ、政治や経済という他の社会の基盤まで秘密主義の風潮を育ててしまうことになる。そこでは「公共」という概念は「公共のため」ではなく「おおやけ」というお上が恩寵を下賜するものの意味になる。したがってそこでは公共のミュージアムというものは、国民や人類の共有財産という本来の位置づけを失い、省庁間の権益の争いのなかで、一種の「私物化」されたものとなってしまう。さらにまた「権益」といううま味が減少すると、それはうち捨てておかれるか、「民間」事業とされる。もし西欧近代のミュージアム制度を非西欧圏が導入しようと図るなら、それが国家事業であること、しかも国家の「大事業」であることを学ばなくてはならないだろう。そうでないなら、ミュージアムの思想そのものを正面から否定し、それを可能にする論理の構築に向かうべきであろう」(267-268)。

「わたしは日本のミュージアムを否とし、西欧のそれを是とする考えはすこしもない。[……]西欧のミュージアム思想は西欧的な価値で全世界を一元化していこうとするきわめて身勝手で、危険な思想であるということを指摘し、同時に中途半端な西欧ミュージアム思想の模倣や移入は、本家本元のそれよりももっと始末におえないものであることを主張しておきたかったのである」(274)。


2014/02/28

松宮秀治『芸術崇拝の思想 ―― 政教分離とヨーロッパの新しい神』

松宮秀治『芸術崇拝の思想 ―― 政教分離とヨーロッパの新しい神』白水社、2008年.







 帯に曰く、

「芸術はいかにして〈神〉となったのか 宗教に代わる新しい支配原理となっていった芸術の思想を、民族、歴史、文化などの問題とからめて論じていく。」

「この本は「芸術」否定の書である。しかし、個々に存在している作品を否定する書ではない。むしろ、あまりにも高みに押し上げられ、崇拝され、礼拝される西欧近代の芸術思想が……芸術を思いあがらせ、逸脱させ、暴走化の方向へ導いてきたことを自覚し、作品をもっと等身大のものとして見る方向で、個々の作品のあるべき価値をもう一度確認する手がかりを見出そうとする書である。(本書「あとがき」より)」

 著者の主張に賛成するか反対するかは別としても、現時点において、「芸術」とは何かを考える上での基本文献。多岐に渡る論点、指摘を含み、著者の「芸術」に対する相反する感情も垣間見られる。

序章 芸術家伝説

 西欧の前近代あるいは非西欧世界の芸術家伝説は、きわめて大まかに分類すれば、「才能発見」伝説と「完璧な伎倆」伝説に集約できる(8)。そして後者の「完璧な伎倆」伝説が意味するところは、「人を仮想上のヴァーチャル・リアリティーの世界に導くことのできる、一種の魔術的技術への賞賛と畏怖であった」(10)。こうした前近代の芸術家伝説はかなりの広がりをもっている。「なぜなら歴史主義の思想が成立する以前の前近代世界において、芸術家と芸術の価値や特性というものが個性の発展史のなかで捉えられなければならないという発想そのものが存在しなかったからである」(14)。

「前近代の芸術家伝説は[……]社会と芸術が求める価値の間に断絶のないときに、人々が芸術と芸術家を理解する最も直接的で、最も有効な手段だったのである。前近代の芸術家は社会と価値を共有して生きていたため、近代のような芸術の自律的価値も知らなければ、その要求の必要性も感じることなく社会との一体感のなかに生きることができた。前近代の社会は言葉の厳密な意味において、「芸術家」という概念を知らなかったし、それを要求する必要さえ感じていなかった。彼らにとって「芸術」は存在しなかったのである。また「芸術家」も存在しなかった。存在していたのは「技術」者だったのである」(15)。

 一方で、西欧近代の芸術家像は、極言すれば二つのそれに還元される。「ひとつは「芸術」という神に殉ずる殉教者的芸術家、ないしは「芸術」という神の神聖価値を求めて絶えざる探究へ没入する求道者的芸術家像である。もうひとつはすでに前者のなかに内在的に含まれている要因であるが、芸術家自身の内面における葛藤、逃走がそのエネルギーを自己の外に向けたときに具体的なかたちとなって現れる芸術家像、つまり反逆者的芸術家像ないしは道化的芸術家像である」(19)。そして「近代芸術の本質とは反権力と反社会性のなかにある」(25)。

「一八世紀後半から一九世紀初頭にかけて起こった、この宗教と芸術の位置の逆転、いいかえれば「政教分離」の思想の成立と新たな「芸術」の概念の成立は非西欧圏の人びとの想像を超える巨大な思想の変革であった[……]だがこのプロセスはヨーロッパの政治、経済、社会、思想、芸術、宗教、教養体系などの全領域的な問題、総合的な諸問題が複雑に絡み合った網目状の相互作用、相互浸透のなかで起きているのである」(30)。

第一章 芸術の価値とは何か

 「芸術」とは過去二〇〇年前にヨーロッパにおいて「創出」された観念にすぎない。「いいかえれば「芸術」とは特殊ヨーロッパ的な「発明」品にすぎないのである」(33)。
 その端緒の一つがヴィンケルマンによるギリシア彫刻の発見だが、「ヴィンケルマンはギリシア人とギリシア彫刻を発見したのではない。彼はまさにそれらを「発明」したのである」(39)。

「ギリシアがローマを通じて何ひとつ継承されなかったゆえに、ギリシアを模倣してヨーロッパを偉大な存在にしようというのが、ヴィンケルマンの主張である。この主張があってはじめてギリシアがヨーロッパ精神に接ぎ木され、あたかもギリシア精神が、不断にヨーロッパ精神に対して伏流水のごとく養分を補給し、それを涵養してきたという「ヨーロッパ・イデオロギー」が一般化され、結果として「神話としてのギリシア」が形成されてきたのである」(41)。

ヴィンケルマンは王侯、貴顕たちに、ギリシア美術の虚飾を配した簡素な美の精神を説き、奢侈なる芸術に代わる質実剛健な芸術の精神を説く(44)。「華美から質実剛健へ、奢侈から節約へ、祝祭政治から官僚政治へというのが、もはや先がなくなった専制君主たちの願望となりつつあった。専制君主たちの願望に最も具体的なイメージを与えたのがヴィンケルマンの思想であった」(53)。

「この思想を見取り図として進めば、政権は無傷のまま祝祭政治から脱することができるばかりでなく、新たな「教養市民」国家へ転換できる。さらには教会と聖職者を国家へ帰属させ、市民法のもとで「セキュラリゼーション(secularization)」することができる。
 「セキュラリゼーション」は日本では通常「世俗化」と訳されていて、[……]だがこれは厳密にいえば一八世紀の歴史用語で、教会の土地財産の「俗領化」を意味する言葉である。もちろんそこから派生的に聖職者の国家公務員化、教会と聖職者の国法による処遇をも意味するようになる。いうなればそれは宗教の進展の内在的なプロセスではなく、政治によって外在的に加えられる力のことなのである。
 それとあいまって「政教分離」はわれわれの一般的な歴史認識と異なって、国家が宗教(キリスト教)に対して外から加えた力によって生じた政治的結果を意味するのではないことを加えておかねばならない。政教分離とは一八世紀後半から一九世紀にかけて、国家と宗教の対立が激化し、歴史上かつてなかった新しい政治と宗教の関係が生み出されていくなかで両者の和解が不可能となったとき、教会の側が「キリスト者の自由」を守るためにみずから国家への関与から身を引いたことである。[……]
 そしてキリスト教が国家権力から離反した空隙を埋めるために、近代国家によって生み出されたのが「市民宗教(レジオン・シビル)」(社会宗教あるいは国家宗教)であり、新たな「神」というより「神々」として祀られたのが「芸術」「歴史」「文化」「科学」である。そしてそれらの神々を祀る新しい国家神殿がミュージアムなのである」(53‐55)。

つまり芸術の自律的価値の思想は芸術の内在的原理から生じてきたものではない。

「[……]もう一度繰り返して言えば、一八世紀の専制君主政諸国家が、すでに内部矛盾に苦しみ、わずかながらも政策の方向転換を図ってきたなかで、つまり「宗教」を完全に裡にとり込んでいき、宗教に代わって道徳を国家法の体系に組み込み、そこから漏れてしまう人間の内面的価値を「芸術」に付託してきたプロセスのなかで、「芸術」はその自立的価値を確かなものにしてきたのである。また近代国民国家もこの啓蒙専制主義の政策を継承し、アルス、テクネを「科学」「技術」「芸術」に分割し、国家制度のなかに組み込んでいくことで、それぞれの自律的価値を「近代のイデオロギー」にまで発展させたのである。
 また西欧のキリスト教がその教義を独自の神学体系にまとめあげ、それ自体が政治に依存しなくても「自律性」を維持することができたゆえに、つまり政治からの干渉を断ち切って、自己の存続と発展をみずからの力で推進していく力を蓄えてきたゆえに、芸術にも「自律的」な価値を与えることができるのである」(62‐63)。

 また「芸術が自律化すると、芸術の制作と評価基準が「創造性」「独創性」「個性」というものになる。ヨーロッパの伝統において「創造する」(create)という言葉は神のみの属性を表わす語であって世界の聖なる創造ということを明確な背景として使われてきた。創造、創造的という概念が芸術家の営為に転化させられるまで、それは神のみがなしうる行為であって、人間の行為について使われるときは、クリエイトとかクリエイションなる語は「狂気のつくり出した幻」「熱にうなされた頭がつくり出す妄想」とほぼ同義のものを意味していた」(64)。この語は一八世紀末に芸術に関して肯定的な意味を獲得する以前は、人間に関しては負の意味を付与されていた。

第二章 革命思想としての啓蒙主義

 「啓蒙主義は芸術を解放する。[……]暫定的な結論としていえば、芸術は理念的に「職能」から解放され、自律的な価値を与えれたということである。[……]これを突き詰めていくと「芸術家」とは理念的にはみずから神となって、自己の作品を通じて、歴史と社会がいまだ発見しえなかった新しい価値を創出する「創造者」となることである」(67)

 「わたしの論述は[ルネサンス期のような]メタファーで語られる芸術家の存在に対してではない。啓蒙主義がメタファーとしてではなく、近代の新しい神格そのものである「神としての芸術家」、つまり神のごとき芸術家ではなく、神そのものとしての芸術家をどのように「創出」していくのかを見ていくことになる」(70)

 著者によれば、啓蒙主義とは「ルネサンス、宗教改革、フランス革命、科学革命、産業革命よりも重要で、世界史的な「革命的事件」といえるのである。こういったいい方は正確ではないかも知れない。なぜならルネサンスも宗教改革も、フランス革命や科学革命、産業革命もすべて西欧の「啓蒙主義」の一連の構成要素だからである。ある意味で啓蒙主義とはそれらすべての総和なのである。
 啓蒙主義とは「伝統社会」からの脱却である。伝統社会とは先例主義と規範主義の社会である。先例主義と規範主義社会とは権威主義社会である。権威主義社会とは「神話」を必要とする社会である」。だが「世界宗教を受容してしまった社会は伝統社会の権威と宗教的権威の間に分裂がもたらされてしまう。
 西欧の啓蒙主義は一種の荒療治によって、西欧社会に生じたこの「分裂」を克服しようとするきわめて大胆な、世界史に例を見ない社会「革命」の思想だったのである」(81)。

 「カントが宗教と政治権力に対して行ったことを「芸術」の分野でおこなったのがヴィンケルマンであり、後続のレッシング、ヘルダーなどである。彼らがおこなったことは、啓蒙思想家と同様、造形芸術や文芸の領域において過去のすべての伝統的な権威的理論への反逆であり、またその克服である。具体的にいえば、伝統的な「自然模倣論」(ミメーシス理論)の克服と芸術判断の中心に据えられた「趣味論」の廃棄である」(103)

 「啓蒙主義の芸術論がめざしたのは、「人間の精神は何も創造することができない」というテーゼの克服であり、人間精神を神に代わる創造者の位置に高めることであった。ヨーロッパの芸術理論の伝統では次の二つの絶対的な前提とその枠を超えることは思いつきさえしなかった。ひとつは、「創造」は神のみの属性であって、被造物にすぎない人間のいかにすぐれた技術的産物も被造物の世界の枠内での仕事であって、それを「創造的」などと考えること自体が神の御技に対する冒涜にすぎないという前提である。もうひとつはプラトン的なイデア論の伝統である。「芸術」とは自然の模倣であり、自然もイデアの写しにすぎないので、芸術はイデアの写しの写しである。どのような天才的な芸術家であろうとも、「〈自然〉そのものの枠を破るべきではないし、また破ることはできない。彼の役割は存在しえないものを想像することではなく、存在しているものを発見することである」[シャルル・バトゥー『芸術論』]という枠である」(105)。
 
第三章 芸術神学の誕生


「ともあれ、一七、一八世紀においては「科学」「技術」「芸術」は、いまだ未分化でほぼ同一概念枠のなかに留まっていた。歴史的により精確な言い方をすれば一七世紀までの諸学芸、諸技術、諸芸術はすべてラテン語の「アルス」のなかに括られていた。いわゆる中世ヨーロッパ以来の一般教養の「自由七学科」(ラテン語ではセプテム・アルテス・リベラレス、英語ではセヴン・リベラル・アーツ)の①文法、②修辞、③弁証法、④幾何、⑤算数(数学)、⑥天文学、⑦音楽は、本来、奴隷でない自由人にふさわしい教養科目として「不自由(奴隷的、肉体労働的)な七科目」、①機械術、②建築術、③航海術、④農耕術、⑤狩猟術、⑥医療術、⑦演劇術と区別され、より特権的な位置を与えられ、また中世神学教育では自由七学科は神学研究の基礎と予備的な教養科目としての正統的な意味を与えられ、のちもその伝統的な重要性を保持してきた」(117)。

「「芸術」がその大いなる価値を発見されることは、それはかならずしも芸術そのものの本来的価値とはいいがたく、西欧の近代思想が虚構としてつくりあげてきた壮大な「虚像」という部分があることも認めておかなければならないのである。[……]この壮大な「虚像(フィクション)」としての「芸術」の観念とこの観念信望の出発点にあるのは「美学」の成立と「美術史研究」の成立という二つの契機である。
 この二つの契機とは、教科書的な解説になるが一七五〇年のバウムガルテンの『美学』と一七五五年のヴィンケルマンの『ギリシア美術模倣論』の出版である。この二つの契機がはっきりした実体をそなえてくるのは一七六四年のヴィンケルマンの『古代美術史』と一七九〇年のカントの「美的判断力の批判」という論文が発表されたときである(これを完成させたのが『判断力批判』である)。
 美学と美術史の出現が西欧における「芸術」価値の底上げの役割を果たしただけでなく、「芸術」の神聖価値の布教と芸術崇拝の思想を生み出すさざまの観念装置の基礎をつくりだしたのであるが、そもそも美学と美術史とはなんなのだろうか。美術史についてはごく表層的に考えても、それがどのような学であるかは理解できる。またその学の存在と輪郭を知ることはそれほど難しいことではない。ところが「美学」とは何か、それがどんな学問なのかは専門家さえ答えられないであろう。なぜなら、「美学」の専門家が今日存在すること自体がとてつもないアナクロニズムで、それは完全に歴史的な役割を果たし終えており、没落し、無用で無意義な学問になりさがってしまっているからである。[……][今日の美学は]本質的に居候学問であって、なんら独立的な学的領域も方法論ももたないものである」(132-133)。

「一八世紀後半から一八三〇年代までは、美学は「芸術」価値の発見に決定的な役割を果したのである。なぜそのような役割を美学が果しえたのかといえば、きわめて逆説的であるが、美学が「芸術」の研究ではなく、いわゆるバウムガルテンの『美学』の本義がそうであり、カントの『判断力批判』がそうであるように、人間の「感性的認識」の特性を探求する学であったからである。つまり、それは芸術の研究ではなく、感性の研究だったのである」(134)。

「いいかえれば「美学」とは感性の全領域を探求する学ではなく、美的対象のみを感受しうる心の動きとしての「感性」と命名された特殊領域の探求なのである。そこから発見されてきたのが、「趣味」(Geschmack)と「美」(das Schöne)である。わたしたちはこの「趣味」という語と「美」という語を理解しようとするとき、その語の一般的用法を完全に忘れなければならない」(135)。

「カントの「批判力」、つまり「判断能力」そのものが「趣味」の別名であるように、[……]また、カントやドイツ観念論一般の「美的判断(エステティッシエス・ウアタイル)」も[……]個々人の間で相異なり、また民族や地域集団間でも異なり、さらには個人にあってさえも生活を通じて変化し続けると考えられるようなものではなく、個人の差異を超えた客観性と妥当性と普遍性をもった美的価値を認識する能力であり、また先験的な、いわゆる生まれながらの、人間に備わった「美意識」に由来するものである」(136)。

「この時代の芸術論上の「美」は日常的用法とは別のもので、ある特別のもの、つまり「理想美」という意味である。そもそも「芸術」とは「美」と直接的に結び付くものではなく、まら芸術の目的は美を求めることではなかったし、現在の芸術の大半も美を求めることをその活動や仕事の目標とはしていないのである。「芸術」と「美」が結び付けられたのは「美学」と「古典主義美術思想」の美術観においてはじめてなされたことである」(136)。

「「美学」とは芸術作品の具体的な理解や作品製作における具体的な知識に関しては何ひとつ役に立つことのない学なのだった。そんな美学が「芸術」の歴史に重要な役割を演じたのは、芸術の倫理的価値を保証する学であったためである。きわめて逆説的な事実であるが、自律的な価値を要求する芸術が、その倫理的価値を「美学」によって保証してもらうことが必要だったのである[……]
[……]このようにこの時代の「美学」と「芸術論」は、「宮廷文化」の欲望論から芸術を解放し、市民社会の倫理的な禁欲主義の思想に一体化させようとするものであった」(137)。

「「芸術」の神聖化とは、芸術を権力や権威の装飾にするのでもなく、また実用価値や効用価値といった利用的役割から解放し、芸術それ自体が自己目的であるようなもの、つまり現実生活上の利用価値はもたず、あたかも純粋な遊びというものが遊ぶこと自体を自己目的とするような、そんな「遊戯精神」に由来し、それゆえに芸術がいかなる拘束からも逃れた「自由」を享受し、またみずから楽しむがゆえに人をもまた楽しませ、人間精神を解放するものにしていくことである」(143)。

「[……]「芸術」活動というものが、人生の全領域の変革ともつながる要因を秘めていたというのは、それがキリスト教信仰という生活のすみずみにまで浸透していたヨーロッパ人の生の全体とかかわる宗教観と、人間支配を絶対化する正統的な権力の不可侵性を植え付けてきた政治領域との、二つの神聖領域への懐疑を人びとに呼び覚まさせたからである。具体的にいうなら教皇庁を中心とするカトリックの世界観と神聖ローマ帝国の皇帝権力の世界観という政治と宗教が一体化されたヨーロッパ世界の全伝統に対する否定の思想が、この新しい「芸術」思想のなかに秘められていたということである。
 ではなぜ「芸術」の思想がこのような人類史上の大変革を可能にするような突破口となりえたのだろうか。それを突き詰めてみると、「自由」の発見ということになるであろう」
147)。

 「いいかえれば、西欧における自由の概念の成立と自由という観念体系の確立の出発点にあったのは「芸術的自由」であったということである。
[……]カントの用語に「自由美」(freie Schönheit)というものがある。それはカントによれば、認識の自由な遊び(freies Spiel)において成立し、なんら特定の概念志向を手がかりにしなくてもよいものということである。カントはこの自由美をまた「純粋美」とも呼び、それが目的にかなったものであるか、またそれが完全なものになりうるのかどうかということも考える必要のない状態のなかで、おのずと現われでるものというふうにいっている」(150)。

 「カント哲学が偉大であり、また偉大といわれるのは「自由」と「道徳」の規準を個々人間の「人格」のなかに求めうる論理体系を創り出したことである。「自由」がはじめて道徳的観点から明らかにされ、「道徳」が人間の先験的理性と経験的な悟性のなかで、人間の人格性と人間性(パーソナリティとヒューマニティ)のなかで成立可能な基盤を求められる論理を構築しえたということである。これがどれほど革命的なことであったかは、このカントの理論によって人類ははじめて「神」を必要としなくともよい思想を持ちえたのだということを考えればおのずと明らかになるであろう」(152)。

 「ともあれ、啓蒙とは人間のすべての制度が人間自身の悟性の活用と自己責務のなかで創出される、時代の出発の宣言なのである。「神」は必要ない。人間が「正義」の判断者、「真理」の発見者、「美」の創造者になっていくべきである、というのが啓蒙の宣言である」(153)。

第四章 「民族」「歴史」との一体化

 「[……]ロマン主義的反動というのは啓蒙主義に対立して出てきたものではなく、啓蒙主義そのもののなかから必然的に出てきたものである。啓蒙主義とロマン主義はそれぞれ別なものではなく同一のものの表裏なのである」(158)。

 「歴史があるがままの事実であると思わせるのが、歴史叙述の本質である。あるがままの事実などは存在しない。歴史とはつねに整序された歴史、創られた歴史であって、事実そのものではない。今わたしたちはすこしずつそこから脱出しつつあるとはいえ、近代の歴史はすべて「国民」の歴史であり、すべて「国民」というフィルターを通じて整序されてきた歴史なのである」(167)。

 「芸術を論じる本書がこのように啓蒙主義とロマン主義の対立、「文化」と「文明」概念の対立に深入りしてきたのは、このことが西欧における「芸術」という観念体系の拡大と深くかかわっているからである。また芸術という概念が生成してきたのもドイツにおいてであり、その観念体系が確立されてきたのもドイツにおいてだからである。
 [……]もうひとつドイツが他国に先駆けて「芸術」概念を強固なものとなしえたのは、「芸術」という概念を「民族」「歴史」「文化」「自由」という概念と結合させることができたことである」(175)。

 「[……]ヘーゲルは芸術の本質の探究としての「美学」と芸術の歴史記述をめざす「芸術史」学の融合を試みようとする。ヘーゲル以後の美学が、芸術認識においてほとんど無意味な冗語に堕し、破産した学問領域となって、芸術理解への道を「芸術史」に譲ってしまうのは、芸術と歴史、芸術と民族精神の関係、芸術認識が芸術史の理解と不可分な関係にあることを忘れ去ってしまったためである。極論していえば、芸術の理解にとって「美学」などははじめから不要なものであった。芸術の認識は芸術の歴史の認識に行きついてしまう。なぜなら芸術とはヘーゲルのいう「歴史を支配する永遠の力を浮かびあがらせる」ものだからである。芸術とはどのような現実の断面を切り取る作業に没頭しようと歴史を支配する永遠の力としての普遍性と個別性の融和のうえで成り立つものだからである」(179)。

 「ではなぜ、「芸術」が芸術家の「個性」以外の「民族」や「歴史」と三位一体の神格のなかにとりこんでいったことが重要だったかといえば、それがキリスト教という神聖政治と絶対主義王政という威光主義政治を無力化させ、「政教分離」という新しい政治文化の原則を樹立するための基礎となったからである」(190)。

第五章 制度化された芸術

 「「芸術否定論が公然と表明されないのは、それが近代の「神」だからである。芸術信仰は近年、その神通力を著しく失ってきているとはいえ、芸術の「異端審問官」たちは、まだまだ健在である。そして始末が悪いのは審問官たちが自分が審問官であることに気づいていないことである。
 きわめて逆説的なことだが、芸術否定の精神と思想が偏在していた前近代世界においての方が、芸術が神となった近代世界においてよりも「芸術」ははるかに偉大だった。換言すれば、「芸術」が芸術でなかった時代の方が、芸術がより本物の芸術であることができた。
 はっきりいってしまえば芸術作品が偉大ですごいというよりは、「芸術」という観念の作用力のほうがもっと大きく強いということである。肥大化した「芸術」という観念の見直しが必要な時期に来ている。しかし、まだ「芸術」そのものの否定にまでは至っていないし、その始動の兆しも確認されていないが、「芸術神学」への批判は顕著になってきているといえる。とくに「文学史」「美術史」という芸術神学の神通力は今ではすっかり失われかけている」(222)。

 「「本来ありもしなかった連関」「作者自身も自覚しなかった連続性」「存在もしていなかった順序と連鎖」といったものを創りだすことが「芸術神学」の最大目標である」(224)。

「礼拝に基づく芸術の観念体系が消滅してしまってもよいし、むしろ消滅してしまうべきだという点ではわたしもベンヤミンの考え方には同調する。しかし「芸術」が「技術」、つまりテクノロジーによって外部から崩壊させられるという考え方には賛成できない。わたしは「芸術」は「技術」との対決のなかで、その戦いに敗れて衰退の道をたどるのではなく、内部からの「思いあがり」と「不遜」から自滅の道をたどり、「芸術」「技術」「科学」が未分化のままにあった「アルス」の状態の謙虚な精神をふたたび自己のものとするとき再生の展望が得られるものと思っている」(229)。

「芸術が無目的であり、「無用の用」の最たるものだということは、芸術が現実の生活に役立たないということではない。むしろあまりに多面的な用、究極的な用に適っているがゆえに実用的な用とは本質的に異なるものだというのである」(247)。

「西欧近代の芸術研究(芸術史、芸術論、芸術批評)がこのように「無用の用」、「無目的の目的」の理論化の方向を歩み出したのは、その当初のプログラムから考えても必然の経路であった。なぜならそれは「芸術」を集団的目的から切り離し、それ自体の自律的価値の主張から出発したからである。それは宗教と政治という権威と権力への奉仕からみずからを引き離すだけで満足するのではなく、さらにはそれ自体がひとつの「聖性」を帯びた存在になることをめざしていくのである」(248)。

終章 芸術崇拝の行方

 「芸術作品が「展示価値」へ移行したということは、人類史上革命的なことである」(270)。

 「[……]近代国家がその出発点においてすでに「ミュージアム」と「エクスポジション」行政に着目し、その政策を実践していったのは、「展示」という特権を明確に国家特権に育てていく必要性を強く意識していたということである。ではその国家特権はなんのために使用されたのか。それは絶対王政主義下の「臣民」を「国民」と「市民」に改変し、「世論」形成の主導権を国家が完全に掌握せんがためである。それはいいかえれば、いわゆる「コミュニケーション」形成の決定権の掌握であるが、「ミュージアム」によって形成される世論は選良的、信念的なそれであって、人びとを「国民」や「民族」の方向に結集させる方向性を強くもつ。それに対し「エクスポジション」は人びとを「公衆」という方向により強く結集させる特性と利点を持つ。
 「公衆」とは「群集」のような物理的集団ではなく、コミュニケーションによって形成され、保存される集団である。コミュニケーションとは思考、感情、知覚を一種の「記号化」によって伝達するプロセスであるが、記号化は人びとの思考、感情、知覚が、象徴的媒介物(者)によって共通の指標に合わせられることである。[……]公衆とは、ある象徴的記号物によって、共通の関心の対象に誘導された集団ということになる」(279)。

「「芸術」のみでなく「科学」や「技術(インダストリー)」(産業技術)をも含めて、その神話化、神格化を支えられうる存在は「公衆」のみである」(281)。

「近代国家は「国民」を国民たらしめ、「市民」を市民たらしめるためには「公衆」を育成する「公共施設」を拡大していかなければならない。だがここに西欧近代における「神」の躓の石が準備されるという二律背反が潜んでいる。「芸術」「科学」「技術」(産業技術)を神格化するための「展示」が拡大すればするほど、その「神話性」や「神聖価値」が失われ、その神聖価値を維持するためには、その「展示価値」を高めるための果てしのない展示の拡大の悪循環にまき込まれてしまう。
「展示価値」が拡大すると「礼拝的価値」よりも「展示」そのものが意味をもち、それが暴走する可能性を生み出してくる」(282)。

 「[……][「展示」の暴走化を]歴史的に規定すると、西欧の芸術が「近代」から「現代」へ移行したことを意味する。[……]芸術が「礼拝価値」から「展示価値」に移行したということであるが、芸術が「展示価値」に移行したということは、それが芸術の理想の追求、人間の教化、精神の豊饒化よりも「現代」という時代の社会的課題の設定、集団的要求の明確化、歴史的使命の認識、いうなれば「今日」の同時代における問題意識の確認を第一義的な目標に設定してくるようになったことを意味する」(282)。

 「[……]芸術礼拝や芸術崇拝もいったん制度化されてしまえば、かならずしも敬虔な信者のみを増やす必要はない。むしろ「公衆」という誘導可能で、誘導されることで反対に「世論」という「公論」を創り出してくれる非組織的集団さえ存在していれば事は足りるのであるところが一八五一年の第一回万国博覧会という象徴的な事件を契機に、「公衆」という存在が不安定になっていっただけでなく、崩壊の道を辿りはじめたのである。「公衆」に代わってその存在を大きなものにして、やがては「芸術」が「展示を拡大化」させることで、かろうじてかつての芸術崇拝の余光をとどめることができるようになるのは「大衆」という存在が、「芸術」をその神聖性において必要とするのではなく、そのスキャンダリズムと芸術家たちのボヘミアン的無頼性ゆえに必要とするからである。
 芸術は、だから展示を暴走させ、芸術家はピエロの役割を引き受け、またあえてドン・キホーテの役割を演じなければならなくなってくる」(285)。

 「もっとも深刻で重要な「展示の暴走化」とは、「芸術家自身の展示品化」ということである」(289)。

 「西欧近代の芸術の思想に対しては、最後にゲーテの言葉を贈りたい。「死して成れ」と」(292)


















2014/02/22

Yves Tanguy and Multiplication of the Arcs: Chapter 2: The Realm of Image.

NAGAO Takashi

    In this chapter, I describe the particularity of Tanguy's image compared to the visual images of Surrealism. Here I present a hypothesis concerning the visual images of Surrealism and by comparing it with that of Tanguy, I show the particularity of Tanguy’s images.

1. The Visual Images of Surrealism.

We cannot grasp the visual images of Surrealism based on an aspect of form. For example, while Dalí’s image is very three-dimentional, that of Miró is very flat. It is impossible to synthesize these images into one style from the point of view of form. William Rubin experimentally proposed the schema: “automatist – abstract” (Miró, Masson), “academic – illusionist” (Dalí, Magritte)[1]. This is, however, just a variation of the schema “figurative - abstract.”
Rosalind Krauss criticized this schema as a simple “List”. Referring to the photography, she claimed that we should grasp the visual images of Surrealism not from the aspect of form but from that of sign.

Surreality is, we could say, nature convulsed into a kind of writing. The special access that photography has to this experience is its privileged connection to the real. […] They are presentations of that very reality as configured, or coded, or written. […] what unites all surrealist production is precisely this experience of nature as representation, physical matter as writing. This is of course not a morphological coherence, but a semiological one[2].

The “nature convulsed into a kind of writing” is also expressed as the “reality constituted as sign[3]”. The practice of Surrealism consists of changing the reality into a sign which signifies something other than itself. In this sense, we can think of the visual images of Surrealism not from a formalist aspect (form, color, line) but from a semiotic aspect.
I also understand Surrealism from the semiotic aspect; The visual image is a construction consisting of signifiant and signifié[4].
As Krauss claims, the visual images of Surrealism refuse to resolve into formal elements (form, color) and they signify something other than themselves as signs. In other words, they refuse to unify signifiant and signifié by being resolved into formal elements. Of course the images of Dalí and Magritte refuse and in the images of Masson and Miró, which are not necessarily clear representations, some signifé, for example, “fish” or “man” are always present [fig.1, 2].


fig.1André Masson, The Battle of Fishes, 1926.


fig.2Joan Mitó, Painting (The Man and the Pipe), 1925.

In addition, Miró considers his image a kind of “idéogramme[5],” Masson considers his automatic dessin as a process through which some images arise from a “pure gesture[6].” Even Arp who has a strong orientation to abstract art says that the interpretation of the work was more important than the work itself in the 1920s[7].
Then what kinds of sign are in the visual images of Surrealism? An important critic of Surrealism, Roger Caillois says:

In these two cases [the literature and the painting of Surrealism], there are the image, nothing but the image, or the image above all; and which, poetically or visually, are experiments to surprise, to propose questions. In a word, they are images which are sign without assured or perceptible or fixed signification; images which would be pure premonitions.

Dans les deux cas, l’image et rien que l’image, ou l’image d’abord; et qui, poétique ou visuelle, cherche à surprendre, à interroger. En un mot, une image qui est signe sans signification assurrée ou perceptible ou univoque; une image qui serait avertissement pur[8].

According to Caillois, the signs in Surrealism are not that of general sense which are valuable to transmit information clearly. On the contrary, they are valuable when they do not have a certain or perceptible or fixed signification. In addition:

In other words, the priviledged given thing is not a sign because it transmit a message. It is promoted to sign because, deprived naturally or accidentally or squeezed deliberately of all conceivable signification, it seems to continue to demand another signification, as a result, become apt to be the support of an infinite  fantasy.

Autrement dit, la donnée privilégiée n’est pas signe parce qu’elle véhicule un message. Elle fut promue signe parce que, privée naturellement ou accidentellement ou essorée délibérément de toute signification concevable, elle semble continuer d’en exiger une et par conséquent se trouve apte à devenir le support d’une rêverie infinie[9].

Namely, the image as such a sign does not have fixed meaning and therefore it becomes possible to read various meanings (fantasy) “infinitely”. Caillois calls this “infinite” or “null” image[10].
And it is in this very point, that Caillois criticizes Surrealism. For Caillois, a classical thinker, the enigma and the mystery must be elucidated. There must be an answer. Therefore Caillois criticizes as intellectual negligence the attitude of Surrealism, creating the enigma without solution, the sign without certain signification.
On the other hand, the recent discussions about Surrealism tend to consider rather positively the particularity as sign which Caillois criticizes. According to Suzuki Masao, for example, the attitude of André Breton to the enigma is to “put an unknown and seducing sign in another context, maintaining its charge as enigma in order to observe what functions there.” It is “neither to leave the enigma intact nor to interpret it in its own context, but to make it work and function[11].” Suzuki says that this attitude of Breton is to “love” the object.

To love is not to understand but it is not the negation of relating, the silence. To relate in a way other than to interpret, to relate to make it work. Breton’s experiment to make the signs he met at the land of Hopi “myth” was, in this sense, to love. We must notice this fact afresh.
So Breton never rejected knowing much about the object, or in some cases even interpreting it. He only paid attention to the vector which dissolves the relation to the object into a known logic[12].

Caillois focused on the enigma in relation to the answer. Breton focused on the state of the enigma itself. That is to say, Caillois’ criticism comes from the difference in standpoints with Breton. In other words, the reflection of Caillois does not vary very much from the recent context of the research of Surrealism. According to Suzuki, the “enigma” in Surrealism should be “worked,” it should not be resolved into one solution. The visual images of Surrealism become “sign having no certain signification” because they become such an “enigma”.
We can see this trend in reseach on Surrealsm in the field of art history. Françoise Levaillant says about the titles written in André Masson’s drawing:

The titles inscribed at the base of the drawings have different functions: giving by definition a “legibility” to the image, or intensifying, on the contrary, its illegibility, or creating a text whose poetic quality intensifies in combination with the image […]
 To indicate the relation of the text to the image, this infinitely subtle net of sense, always in suspension, and always increasing through its author’s not pretend pleasure, “find a new word!”

Les titres inscrits en bas des dessins ont différentes fonctions: soit qu’il confèrent ―― par définition ―― une « lisibilité » à l’image, soit qu’ils renchérissent au contraire sur son illisibilité, soit enfin qu’il créent un texte dont la qualité poétique se renforce de sa combinaison avec une image […]
 Pour désigner cette relation du texte à l’image, ce réseau du sens infiniment subtil, toujours en suspens, et traversé de surcroît par la jubilation non feinte de son auteur, … « trouvons un nouveau mot »[13]!

The text of letters inscribed in the works is meant to allow “reading” the visual images. On the other hand, if the correspondence between the text and the visual images is unclear, “reading” becomes “impossible.” [fig.3]. Though “the infinitely subtle net of sense shows the possibility of infinite interpretation, at the same time it shows the impossibility of interpretation; namely we can never find the final decision.



fig.3André Masson, Angry Suns, 1925.
The title ”SOLEILS FURIEUX (Angry Suns),” was actually pasted on under it is written: ”NUIT BLANCH (White Night), ” “9 AVRIL 1925 (9 April 1925)."


Miyashita Makoto presents the same point of view by adopting the receptive aesthetics for the images of Paul Klee and Max Ernst. Here the conflict between legibility and illegibility does not persist between image and title, for example:

In the case of Ernst, the “accord of discord” in the oil works, for example Elephant of Celebes, and in the collage. The “inserted reality” by frottage and the new relations of images made by that. The “controlled accident” occurs through the cooperation of the accident inserted on the canvas by decalcomania and dripping and the other images as the background of that.
All these were probably the “blank” set by the artist to make the work more ambiguous and more creative through the audiences’ active (creative) “intervention,” an indispensable opportunity for all the new ways of painting structure creation[14].

The “blank” is the concept from Wolfgang Iser[15]. Iser considers the many contradictions occuring between the storyteller and the characters and the sequences as the “blank”. Readers in front of these “blanks” try to fill in therein. That is to say, they try to give rational interpretions in order to read the contradictions of the text consistently. The story, however, finishes without giving ultimate solution to the readers. Readers intervene irresistibly in the progress of the story by trying to fill in the “blank.” Through this the work can become more and more ambiguous. Miyashita says here, the works of Max Ernst have the function of trigering the audiences to intervene in the progress of the work by filling in the contradictions among the images. As a result, many interpretations occur therein, such as Iser’s “blank.”
While Caillois criticizes it, in Levaillant and Miyashita’s points of view, the “infinite fantasy,” which occurs from the “sign without certain, perceptible or fixed signification” is a positive element of the work.
On the basis of hereinbefore, I provide the following as a hypothesis for the images of Surrealism: The images of Surrealism can be defined, as Krauss claimed, not by formalistic but semiologic consistency. This semiologic consistency is, according to Caillois, the “sign without certain, perceptible or fixed signification.” Here I tentatively call this kind of image “opaque image[16].” Through this “opaque image,” infinite significations occur, but these significations do not converge into one, sole meaning. I call this characteristic “infinite” structure, after Callois.

2. Yves Tanguy’s Images.

If we compare the images of Tanguy with those of other surrealists from the point of view of the “opaque image” and of “infinite” structure, what can be said?

2-1.
First, there are some differences in the mechanism through which an image becomes “opaque.”
The visual images of Surrealism become “opaque” as a whole through a “gap” between the signs. I explicate this through one of the most fundamental principles of Surrealism: the “dépaysement.” Here I consider dépaysement as a method of production, or a principle of creation.
The dépaysement, whose primary meaning is “deportation,” means to remove an object from its proper context and to place it in another. After the famous phrase of Lautréamont: “Beautiful like the chance meeting upon a dissecting table of a sewing-machine with an umbrella,” Ernst formulates the dépaysement and presents it as the most impotant procedure of Surrealism.

Thanks to studying enthusiastically the mechanism of inspiration, the surrealists have succeeded in discovering certain essentially poetic processes whereby the plastic work’s elaboration can be freed from the sway of the so-called conscious faculties. (…)
(…) I am inclined to say that it amounts to the exploiting of the fortuitous encounter upon a non-suitable plane of two mutually distant realities (this being a paraphrase and generalization of the celebrated Lautréamont quotation, “Beautiful like the chance meeting upon a dissecting table of a sewing-machine with an umbrella”) or, to use a more handy expression, the cultivation of the effects of a systematic putting out of place (…) [17].

Though the problem is “plastic work,” Ersnt refers to Latréamont’s quote, which is verbal expression. As such the system of dépaysement focuses not on formalistic aspect, form, color, etc., but on the semiological aspect of plastic work common to verbal expression. This is semiological coherence.
In the principle of dépaysement, the signs removed from their original context (a sewing-machine and an umbrella) are juxtaposed upon completely different contexts (dissecting table). The juxtaposed signs are mutually distant, and the context these signs are put in is a non-suitable plane. So among these signs necessarily occurs a “gap.” The signs which have lost their original contexts also lose their clear significations. On the other hand, by losing their original contexts or by being juxtaposed with other signs, they aqcuire the possibility for new significations. That is to say, “legibility” occurs. However, because of the “gap” among the juxtaposed signs or among the signs and their contexts, “illegibility” also occurs. The signs are put in a suspended state of “net of sense.” Alternatively, among the signs occurs a “blank.” There occurs an infinite possibility of interpretations but they never arrive at one clear answer. This is “infinite” structure. Namely the priciple of dépaysement creates the “opaque image.”
According to Ernst, ”Thanks to using, modifying and incidentally systematizing this process, nearly all the surrealists, painters as well as poets, have since its discovery been led from surprise to surprise[18].” Of course, it is impossible to attribute the visual images of Surrealism entirely to dépaysement. If we consider the dépaysement as a semiological principle, we can, however, relate almost all visual images of Surrealism to it. Typical examples are the collages by Ernst, or the images of Dalí and Magritte, wherein the objects are separated from their proper contexts. The photographs separate a part of reality by superposing a frame[19]. In the works of Masson and Miró, there is almost always some reference to reality. As such their works are not unrelated to the principle of dépaysement.
Alternatively, we can think of the works of Masson and Miró in another way. The discussion considering their works as “écriture” shows that in their images linguistic signs (letters) and pictorial signs (line, color, form) are intermixed[20]. That is to say, two different kinds of signs encounter each other upon the canvas. The “gap” occurs between the liguistic signs and the pictorial signs [fig.4, 5]. The same can be said of the frottage and the décalcomanie of Ernst. There, the “gap” occurs between the physical traces from the frottage and the décalcomanie and the resulting signs: a “bird” and a “forest” [fig.6, 7].



fig.4André Masson, Dessin for The Metaphor (1942).


fig.5Joan Miró, Painting (Sable), 1925.


fig.6Max Ernst, The Grand Forest, 1927.

fig.7Max Ernst, Marlène (woman and child), 1940-41.

On the other hand, the particularity of Tanguy’s images is the impossibility of the dépaysement mentioned above[21]. In Tanguy’s works after 1928, where the signs having references to reality had been replaced by the amorphous beings, the principle of dépaysement is impossible. Because Tanguy’s amorphous beings have no definite reference to reality, they are signs which cannot be named[22].
Concerning dépaysement, Ernst defines “the fortuitous encounter upon a non-suitable plane of two mutually distant realities.” In this definition, the “two realities” are “mutually distant,” so it must be clear what these realities are. Each sign must have definite references to reality.  In so doing, the “gap” among the signs or among the signs and contexts can be recognized, and images can become “opaque images” as a whole.
On the other hand, the amorphous beings in Tanguy’s images have no definite references to reality. Tanguy’s images are not real landscape. The amorphous beings (we can adress them only like this) arranged in this imaginal space are not real. Even if they resemble something real, ultimately they never have reference to reality. These “beings” could be, for example, pebble-like, ameba-like, bone-like, machine-like, or they could “seem soft” or “seem solid.” However, as they are images we cannot verify that they are indeed soft or solid[23].
Thus it is not through dépaysement that Tanguy’s images become “opaque.” The “gaps” among the signs do not occur in Tanguy’s images because the signs constructing them have no definite reference to reality. On the other hand, this means that Tanguy’s images themselves are “signs having no fixed significations.” While surrealist visual images become “opaque images” through a composite of the signs, Tanguy’s images are themselves already “opaque images.” This is the first particularity of Tanguy’s images.

2-2.
Another particularity of Tanguy’s images is in the “infinite” structure. In Tanguy’s images the principle of dépaysement is impossible. Critics, however, have identified various images in Tanguy’s works until now. How does “infinite” structure in Tanguy’s images occur?
The amorphous beings constructing Tanguy’s images have no definite reference to reality. We can also find this kind of image in those made by décalcomanie, excluding the works which transform the trace of décalcomanie into other images such as those of Max Ersnt, mentioned above.



fig.8Óscar Domínguez, [Untitled], 1937.

Décalcomanie is a kind of painting technique. First, a painted paper is placed on  another paper, and then, the second paper is stripped off, fixing the trace of paint. The images by décalcomanie themselves have no definite reference to reality [fig.8]. The images occuring here are formally very much “abstract.” These images, however, do not aim for physical reality as paint or medium. André Breton says that the décalcomanie should be added to the “secrets of surrealist magic,” and he adds:

To open the window on the most beautiful landscapes of this world and of others at will.

Pour ouvrir à volonté sa fenêtre sur les plus beaux paysages du monde et d’ailleurs

He considers the images made by décalcomanie, “windows,” and he says after this:

What you have before you is perhaps only the old paranoiac wall of da Vinci, but it is this wall that has been perfected.

Ce que vous avez devant vous n’est peut-être que le vieux mur paranoïaque de Vinci, mais c’est ce mur porté à sa perfection[24].

The “paranoiac wall of da Vinci” comes from Leonardo da Vinci’s painting lecture. By staring at formless objects like a stain on the wall, we can perceive various images there which could be materials of creation. That is to say, the images by décalcomanie prompt audiences to see various images through those formally “abstract” things.
Images made by décalcomanie are similar to Tanguy’s images, because they have no references to reality, and because audiences perceive various significations within[25].
However, they should not be considered exactly the same. Images by décalcomanie have no fixed signifié. On the other hand, Tanguy’s images are perfect representations of something. That is to say, Tanguy paints “beings” which cast shadows in the illusionary three-dimensional space. Thus these images have a fixed signifié. This property of Tanguy’s images’ is a decisive departure from images of décalcomanie.
This difference regulates the conditions of “infinite” structure of both styles. The images by décalcomanie do not have a fixed signifié because they occur by chance. It might even be said that the signifié is the physical trace itself. However, when we consider them as “windows,” the forthcoming images, in theory, have no limitation; as there is no fixed signifié from the beginning, their interpretations have no limitation and each interpretation is equally valid.
The images by décalcomanie essentialy have only the level of physical traces as reality. However, while Tanguy’s images also have an agglomeration of paint and brush traces as physical reality, there is another level. It is that of illusion created by smooth brushing and by excluding physical traces as much as possible. Rather than physical traces,Tanguy’s images are better defined as three dimensional illusions. In this sense, Tanguy’s images have fixed signifié differing from décalcomanie.
Tanguy’s images have no definite reference to reality; though they have some fixed signifié, it is impossible to identify them. Due to this property, various interpretations have been made until now [see chapter I]. However, this very property renders it impossible for these interpretations to arrive at an essential signifié. In the case of décalcomanie, because there is no fixed signifié, all interpretations are equally valid. In the case of Tanguy’s images, unless we can identify “beings” as their fixed signifié, the act of interpretation is essentially nonsense. The very act of interpretation is  nullified. Regardless of this, Tanguy’s images are decidedly illusionistic. However unlike typical illusionism they cannot be considered an abstraction of a specific object.
This property of nullifying interpretation is another particularity of Tanguy’s images. The surrealist visual images have “infinite” structure. These images are suspended between legibility and illegibility but they do not nullify interpretation. According to Levaillant and Miyashita, they actually stimulate it. Tanguy’s images also stimulate audience interpretation. However, in contrast with “infinite” structure, because Tanguy’s images have no definite references to reality, and because they are perfect representations with three dimensional illusion, they ultimately nullify the acts of interpretation.

2-3.
Tanguy’s images nullify interpretation. Therefore the problem of titulation, which is at the border between the inside and the outside of any work, arises. He scarcely spoke of his works. There is no text in his works except for his signature, date, and names of persons to whom he dedicated the works. Only words related to Tanguy’s images are titles.
Caillois says that because semiologic aspect is important in surrealist paintings, titles have “extraordinary importance” and “thus those titles are not simple titles but lexical equivalents of painted works[26].”
This claim, however, does not necessarily apply to Tanguy’s works. The catalogue raisonné edited by Kay Sage and Pierre Matisse[27] includes the data of 463 works. Of those 139 have no titles and among those 75 works are untitled, 63 are unknown, and one is titled “untitled.” That is to say, about a quarter of his works have no title. According to Gordon Onslow-Ford[28], most of Tanguy’s works are titled by his friends. Furthermore, in accordance with the discussions above, because Tanguy’s images have no definite reference to reality, images and titles do not coincide.
It is not evident from his words how Tanguy thinks of his titles. There is, however, a suggestive fact concerning this problem. On his first solo exhibition, Tanguy, together with Breton, took his works’ titles from a book concerning psychical research (concerning this problem, see also chapter V). At a 1946 interview, Tanguy says:

I remember spending a whole afternoon with him before the catalogue went to press searching through books on psychiatry for statements of patients which we could use as titles for the paintings. The Museum’s painting Mama, Papa is Wounded! was one of them[29].

Concerning this fact, Jennifer Mundy has provided further details[30]. The book in question was Introduction to the metapsycology[31], written by Charles Richet, who was an authority on psychical research. This book concerns wide paranormal phenomena: telepathy, premonition, levitation, ectoplasm etc.. Tanguy and Breton borrowed 13 titles and one subtitle for all the exhibited works[32]. Specifically, most are from the chapter on monition.
According to Mundy, these titles are not chosen randomly because there are similarities between the titles and images. For example, Mama, Papa is Wounded! (1927) [fig.9], refered to by Tanguy in his interview above, is taken from the following story of premonition. At the very time his father was wounded, suddenly the son woke up and said “mama, papa was wounded, but he is not dead (Maman, papa est blessé, mais il n’est pas mort)[33].”



fig.9Yves Tanguy, Mama, Papa is Wounded!, 1927.

Concerning this, Mundy says:

The title leads the reading of the forms: in the foreground a large phallic shape bleeds billows of a dark substance while near the horizon stands a rounded, (maternal?) form, surrounded by smaller, satellite objects [...]. Clearly it would make the oddest of families, […][34]

That is to say, the object in the foreground is the bleeding father, and the objects near the horizon are his familiy.
Tanguy took his works’ titles from another source also. What does this mean? Mundy considers these titles as what awake audiences’ creative interpretations[35]. By taking his titles from a book concerning psychical research, another level of context is added to his works. Thus it becomes possible to “read” Tanguy’s work. Legibility occurs here.
On the other hand, because Tanguy’s images have no definite reference to reality, latent “illegibility” is always there. Even if the context is clear like this case, it is not necessarily clear how to connect it to the image. For example, in the case of Mama, Papa is Wounded!, it is possible to think of several combinations of father, mother and children. That is to say, the titles here functions to add to the images an aspect of “legibility / illegibility.”
Is it possible to apply this point of view to all Tanguy’s works? Unlike images, titles consist of words and therefore contribute to an aspect of legibility by nature. Generally titles are considered to correspond to the image directly. For example, a work titled “cat” represents a cat. Tanguy’s images, however, have no definite reference to reality. Therefore the titles and the images do not correspond clearly. There is already latent “illegibility.” By being titled, this latent “illegibility” becomes overt. Like this the aspect of “legibility / illegibility” occurs. The titles of Tanguy’s works serve to add an aspect of “legibility / illegibility[36].”

2-4.
The aspect of “legibility / illegibility” occurs by being titled. This gives at least a possibility for “reading” Tanguy’s images. When we take, however, the problem of transition of Tanguy’s works into consideration, this aspect may also be nullified.
 From 1926 to 1927, in Tanguy’s works amorphous beings replace signs having references to reality. Though during the 1920s, the space and the forms of the beings and their shadows are sometimes ambiguous, in the early 1930s after his trip to Africa, Tanguy’s style is established. After that, while he did continue to elaborate his technique, his basic style does not change. The structure where amorphous beings with no references to reality are arranged before vast space, applies to almost all Tanguy’s works after 1928.
Tanguy’s images do change gradually but this is not a change of style but of the state of motifs. The change in Tanguy’s images is the change of the state of amorphous beings as main motifs.
The amorphous beings appear for the first time in The Storm (Black Landscape) (1926) or Dark Moon (1926). From 1926 to 1927, Tanguy paints the amorphous being and signs having references to reality at the same time. In 1928 Tanguy’s works are overtaken by the amorphous beings. During the 1920s, the amorphous beings show  forms like amoebae which are sparse and tend to be floating in the air. After his trip to Africa in 1930, the space gradually becomes transparent, and the beings come to have fixed contours and assemble in the forefront of the canvas. In the 1940s, the beings grow bigger with respect to the canvas, and take on more complex forms. They ressemble solid mineral or machine. From the mid-1940s, signs of propagation and spawning can be seen. In the 1950s, the beings become bigger and bigger, more and more complex and propagate and spawn more and more. This transition climaxes with Multiplication of the Arcs, and then comes Tanguy’s last work, Imaginary Numbers (1954).
Tanguy’s body of works includes three characteristics: “continuity,” “consistency,” and “autonomy.” “Continuity” means that Tanguy continued to paint the same amorphous beings in the unchanged style. “Consistency” means that these beings gradually become bigger, and more complex, and they propagate more and more. That is to say, they consistently progress toward an extreme state. What’s more, this consistency gives the impression that the images change by their own will, suggesting an “autonomy” of the works.
The continuity, consistency and autonomy in transition within Tanguy’s works are sometimes regarded as monotonous, but we can consider them as the characteristic point of Tanguy’s images. They also nullify each image’s meaning.
 Tanguy painted similar images repeatedly. This continuity and the consistency, in which the works transition toward an extreme state as a whole, gives an evergrowing impression of continuity and similarity. That is to say, these characteristics sugggest that the works do not resemble each other by chance but because they are in the same current. Thus each work is determined by this current and is entirely independent from its title.
As such the titles function to distinguish one work from another[37]. Normally, a work is connected to its title through its individuality. However, if one work resembles another, the purpose of an individual title is compromised. In Tanguy’s works, due to this  continuity (similarity) emphasized by consistency of transition, and due to the autonomy found therein, the connection between title and image becomes weak. The more Tanguy paints the works along this current of continuity, of consistency, of autonomy, the freer the images become from the titles. Hence, Tanguy’s titles become “something like an ID number for the works[38],” losing individual meaning to an extreme degree.



[fig.10Pablo Picasso, Crucifixion, 1932.

Furthermore, this operation weakens not only the meaning of titles but also that of image itself. For example, though Crucifixion of Picasso [fig.10] resembles Tanguy’s image very much, we can conclude this work depicts the scene of crucifixion. Tentatively, this is possible with just its title. However, strictly speaking, we also need to know its background; Picasso is a painter who basically paints real things, most works of Picasso have realistic titles, there are other works which depict the scene of crucifixion more realistically etc.. No difference between Picasso and Tanguy’s work could be determined solely by the title “crucifixion.” The title may have no relation to the actual image; it may simply function to add to a work an aspect of “legibility / illegibility” like the case of Tanguy. Here, however, we accept Picasso’s title crucifixion as-is after judging collectively from Picasso’s other works. That is to say, if an image of a work is not clear, by comparing it to other works of the same painter, it becomes possible to read that image.
In the case of Tanguy, however, comparing one work to another doesn’t offer much insight. This is because, following 1928, Tanguy’s works have no definite reference to reality. It is no use to compare one unknown thing to another. In the case of Picasso, the fact that almost all his other works depict real things, and that the title “crucifixion” is based on the general image of crucifixion are clear, makes comparison  effective. In the case of Tanguy’s images, due to their “continuity,” they resemble each other very much. Therefore the act of comparison is inefffective.
The continuity of Tanguy’s works also functions to nullify  interpretation. Tanguy’s images are rendered autonomous by their consistent continuity. Through consistent transition by repeating similar images, Tanguy’s images are freed from the titles and their meanings behind the work are diminished[39].

3. The Realm of Image

I have shown the particularity of Yves Tanguy’s images by comparing them to surrealist visual images. Finally, based on the above, I suggest Tanguy’s place relative to the surrealist visual images.
 Tanguy’s images are “opaque images,” because the elements composing them have no definite reference to reality and their nature nullifies interpretation. These particularities can be described as an attempt to escape from words entirely. This is different from other surrealist visual images, which always keep their connection to words.
Plastic practices of surrealism always maintained their relation to words. Ernst’s “collage roman,” letter signs in Masson’s and Miró’s works, images and words in Magritte’s works, images of Dalí and, subsidiary to them, his texts, the objects functioning by their creator’s desire. The priciple of dépaysement was a paraphrase of Lautréamont’s line. The point of view of “legibility / illegibility” and “blank” suggest that interpretations are indispensable to the generation of works.
 On the other hand, Tanguy’s images reject the invasion of words into their realm. Even titles exist only minimaly at their very edge, with only the image truly present within the proper realm. This realm of image is irresolvable other than to image itself. Let’s remember Caillois’s words: “there are the image, nothing but the image, or the image above all.”
If we think of the place of Tanguy’s realm in surrealism, the words of Caillois are suggestive. André Breton’s words below offer an answer for this question for the time being:

[…] without any immediate equivalent in nature, and which, it must be pointed out, have not to this day yielded to any valid interpretation.
 But first let us make short shrift of all equivocation and say clearly that we are with these beings not in the regions of abstraction but in the very heart of the concrete[40].

Tanguy’s region is “in the very heart of the concrete[41].”
What is the “heart of the concrete” according to Breton? Suzuki Masao has raised “concrete” as a keyword to summarize the surrealist paintings[42]. According to Suzuki, this word is paired with the word “objective” for Breton in the 1930s. Alternatively it is used as “concrete irrationality” by Dalí or as “concrete art” by Arp. Suzuki considers this “concrete” thing to be “unnamed” or “the thing which cannot acquire stable identity.”
If we interpret this word from the discussion above, “the concrete” means image irresolvable other than to image itself. Though it clearly exists, it is impossible to name. It cannot become a concrete concept, nor does it stay at the level of material. That is the “concrete” thing, and its “heart,” that is to say, its extreme form is Tanguy’s image.
From this point of view, we can reconceptualize the surrealist visual image that which occurs from the “gaps” among signs, in the principle of dépaysement, is this “concrete” thing. The sign loses “assured or perceptible or fixed signification”; this means losing name and identity. Thus the image cannot be exchanged with words as a whole (I have called this “opaque image”), but appears as a “concrete” thing. The interpretations which occur from “gaps” among the signs appear as possibilities to audiences. These possibilities (or impossibilities) which have not become texts yet are the “concrete” thing.
While the surrealist visual images become a “concrete” thing through the medium of words, Tanguy’s images become a “concrete” thing in themselves. Therefore they themselves are the “heart” of “concrete” things. Thus Tanguy’s images can be considered an extreme form of surrealist visual image. Breton applauded Tanguy not only because he was faithful to Breton but also because he saw a “heart” of surrealism in Tanguy.
Furthermore, if we consider Tanguy’s images as an extreme form of surrealist visual image, the vector of the surrealist visual image becomes clear. Tanguy’s images are irresolvable other than to images themselves. That is to say, the “concrete” thing Breton refers to is what turns to image decisively. What becomes clear by placing Tanguy’s images in the context of surrealist visual images is this realm of image[43].


Tanguy’s images attempt a complete escape from words. I call this orientation toward inexchangeability with words, “silence.” Thus we can understand Tanguy’s thorough refusal to talk about his own works to be consistent with his image’s character. In a letter to a critic, Tanguy says:

I understand and find your questions very thoughtful unfortunately it is absolutely impossible for me to respond. Please believe me that I mean no ill will; but I cannot, nor, consequently, want to try to give a definition, even a simple one, to what I paint. If I did try, I would risk very much closing myself in a definition that would later become like a prison for me.

Je comprends et trouve très sensées vos questions malheureusement il m’est absolument impossible d’y répondre. Croyez bien que ce n’est pas de ma part de la mauvaise volonté; mais je ne peux, ni par conséquent ne veux essayer de donner une définition, aussi simple soit elle, de ce que je peint. Si je tentais de la faire je risquérais à tout jamais m’enfermer dans une definition qui ne tarderai (sic.) pas à devenir pour moi comme une prison[44].

We can find the same claim in a questionnaire done one year before his death.

And, to finish, should I seek the reasons for my painting, I would feel that it would be a self-imprisonment[45].

We can also observe Tanguy’s attitude to reject words from testimonies of his friends.

[…] Yves Tanguy refrains from making any statement concerning the ends he proposes to realize, reveals not one of his designs and is too disdainful to give the lie to those attributed to him […] [46]. (André Breton)

Yves Tanguy was taciturn. He never spoke of his painting, contrary to his contemporaries who eagerly tried to inform us about their “research” or their “experiences.” (André Thirion)

Yves Tanguy était taciturne. Il ne parlait jamais de sa peinture au rebours des contemporains tellement soucieux de nous mettre au courant de leurs « recherches » ou de leurs « experiences »[47].

Concerning his works, as well as himself, Tanguy did not speak. When one attempted a reflexion on his tableaux, at most he consented with a smile to show that he did not disapprove. (Patrick Waldberg)

De cette œuvre, pas plus que de lui-même, Tanguy ne parlait. Lorsqu’il arrivait que l’on fît une réflexion sur tel de ses tableaux, tout au plus consentait-il à sourire pour montrer qu’il ne désapprouvait pas[48].

Throughout the twenty year exchange of letters with his friend, Marcel Jean, Tanguy hardly spoke of his works.
This attitude of Tanguy is exceptional both as a twentieth century painter and as a surrealist painter. Typical surrealist artists, for example, Ernst, Masson, Arp, Miró, Magritte, Dalí, Giacometti, and Matta, spoke much of their art in the form of writing or interview. Even Kay Sage, as a partner of Tanguy, who maintained silence, wrote poems and an autobiographical text titled China Egg[49]. On the other hand, Tanguy published only two pieces of writing, “Weights and Colors” (1931) and “Life of Object” (1933) in Surrealism au service de la révolution. Aside from these there were only a few questionnaires and interviews. This is much less than those of the painters mentioned above.
Tanguy did not seem to consider himself suited to write. When Macel Jean asked Tanguy to write a foreword of his exhibition. Tanguy answered:

It is a grand proof of friendship to ask me to write a short presentation for you. But sadly, I consider myself completely incompetent in this field. So don’t think badly if I refuse this honor.

C’est une bien grande preuve d’amitié de me demander d’écrire une petite présentation pour toi. Hélas, je me sens parfaitement nul dans ce domaine. Ne m’en veux donc pas si je refuse platement cet honneur[50].

We should not, however, assume Tanguy’s silence to be simply an issue of character or as outward posture. Following the point of this chapter, Tanguy’s images themselves are oriented to inexchangeability with words, to silence. A few critics made reference to this point.

Since the very early years of his career, however, Tanguy’s subjects have never referred directly to outer appearances. They have referred to uncharted realms of the imagination, where we are stirred by shapes we cannot hail or dismiss by name[51]. (James Thrall Soby)

To my eyes the tableau is always speaking and but always it remains mute: […] This contradiction between an immediate adhesion of mind and the sensation of a definitive exclusion, I found it each time I saw the work of Tanguy, though facing it words seem to me heavier and more awkward than ever. (Jean-Chiristophe Bailly)

À mes yeux le tableau parle toujours et toujours il reste muet: […] Cette contradiction entre une adhésion immédiate de l’esprit et le sentiment d’une exclusion définitive, je la retrouvai à chaque nouvelle rencontre avec l’œuvre de Tanguy, si bien que face à elle les mots me semblent plus lourds et plus maladroits que jamais[52].

I have always had the impression, with Tanguy, that I was in a dream, a book whose words, though familiar to me, were indecipherable. Where did the sense go? (Yves Bonnefoy)

J’ai toujours eu l’impression, avec Tanguy, d’être en rêve, devant un livre dont les mots me seraient, bien que familiers, indéchiffrables. Où est passé le sens? [53]

What anyone feels before the works of Yves Tanguy is a strange silence which cannot be compared to any other artist and of which no one can know how to speak of. Though we can think of Dalí or of Chirico or sometimes of Miró, or even, the still life of the Baroque era, Tanguy’s works have a silence which these paintings do not. It is this silence which we cannot help questioning; Why does such a thing happen? […]
There is no other painting wihich makes us feel the unspeakable sensation “there is nothing” to this extent.
The sensation that there is nothing to say from the start, the sensation that there was nothing to say, there is nothing to say, there will be nothing to say, before and now and after, and the sensation that even we who should say something are not there, these sensations are present[54]. (Nibuya Takashi)

In this chapter, I have suggested Tanguy’s particularity as orientation to inexchangeability to words, silence. After this chapter, I examine from several points of view to what historical contexts this particularity belongs. To start, in the next chapter, I consider Giorgio de Chirico’s theory of metaphysical painting as an origin for Tanguy’s silence.


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Abbreviations:


  • Arp (1958): Jean Arp, “Looking,” in: James Thrall Soby (ed.), Arp (exh.cat.), The Museum of Modern Art, 1958, pp.12-16.
  • Breton (1965): André Breton, Le surréalisme et la peinture, Gallimard, Paris, 1965.
  • Breuning (1945): Margaret Breuning, “Surrealist Disillusion of Yves Tanguy,” in: Art Digest, vol.19, New York, 15 May 1945, p.9.
  • Brion (1961): Marcel Brion, Art fantastique, Albin Michel, Paris, 1961.
  • Caillois (1974): Roger Caillois, “L’univers des signes,” in: XXe siècle, vol.36, no.42, Paris, Juin 1974, unpagenated, reprinted in; Obliques précédé de images, images…, Stock, Paris, 1975.
  • Jung (1958): Carl Gustav Jung, Ein Moderner Mythus, von Dingen, die am Himmel gesehen werden, Rascher Verlag, 1958.
  • Krauss (1981): Rosalind Krauss, “The Photographic Conditions of Surrealism,” in: October, no.19, Winter 1981, pp.3-34, reprinted in; Rosalind Krauss, The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths, The MIT Press, 1985.
  • Levaillant (1991): Françoise Levaillant, “Lisivilité vs illisibilité: dessins d’André Masson au début des années 20,” in: L’art, effacement et surgissement des figures. Hommage à Marc Le Bot, Publication de la Sorbonne, Paris, 1991, pp.87-105.
  • Masson (1994): André Masson, Françoise Levaillant (ed.), Le rebelle du surréalisme. Écrits, Hermann, 1994.
  • Matisse (1963): Pierre Matisse, Kay Sage (eds.), Yves Tanguy: Un recueil de ses œuvres / A Summary of His Works, Pierre Matisse, New York, 1963.
  • Maur (2001): Karin von Maur (ed.), Yves Tanguy und der Surrealismus (exh.cat.), Staatsgalerie Stuttgart, Hatje Canz, Ostfildern-Ruit, 2000; John Brownjohn, John S. Southard (tr.), Yves Tanguy and Surrealism (exh.cat.)The Menil Collection (Houston), Hatje Canz, Ostfildern-Ruit, 2001.
  • Miró (1977): Joan Miró, Georges Raillard, Ceci est la couleur des mes rêves, Seuil, Paris, 1977.
  • Mundy (1983): Jennifer Mundy, ”Tanguy, Titles and Mediums,” in: Art History, vol.6, no.2, June 1983, pp.199-213.
  • Rétrospective (1982): Yves Tanguy: Rétrospective 1925-1955 (exh.cat.), Centre Geoges Pompidou, Paris, 1982.
  • Richet (1922): Charles Richet, Traité de métapsychique, Félix Alcan, Paris, 1922.
  • Rubin (1966): William Rubin, “Toward a Critical Framework,” in: Artforum, vol.5, no.1, September 1966, pp.36-55.
  • Sage (1996): Kay Sage, Elisabeth Manuel (tr.), Judith Suther (ed.), China Eggs / Les Oeufs de Porcelaine, Bilingual ed., Starbooks / L’étoile, 1996.
  • Schmidt (1982): Katharina Schmidt (ed.), Yves Tanguy (exh.cat.), Staatliche Kunsthalle Baden-Baden, Prestel-Verlag, München, 1982.
  • Soby (1949): James Thrall Soby, “Inland in the Subconscious: Yves Tanguy,” in: Magazine of Art, vol.42, New York, January 1949, pp.2-7.
  • Sweeny (1946): James Johnson Sweeny, “Interview with Yves Tanguy,” in: The Museum of Modern Art Bulletin, vol.13, nos.4-5, The Museum of Modern ArtNew York, 1946, pp.22-23.
  • Tanguy (1954): “The Creative Process,” in: Art Digest, vol.28, no.8, New York, 15 January 1954, pp.14-16.
  • Tanguy (1993): Yves Tanguy, Lettres de loin: Adressées à Marcel Jean, Le Dilettante, Paris, 1993.
  • View (1942): View, vol.2, no.2 [Special Double Number: “Tanguy-Tchelitchew”], New York, May 1942, unpagenated.
  • Waldberg (1977): Patrick Waldberg, Yves Tanguy, André de Rache, Bruxelle, 1977.
Notes

[1] Rubin (1966), pp.36-37. Rubin says the “poetry” of the images of Tanguy is different from both of two currents. Rubin (1968), p.102. There is also the point of view considering Tanguy’s images as a synthesization of these two currents. David Sylvester, “Yves Tanguy,” in: Art News and Review, vol.2, no.9, London, 3 June 1950, pp.5-6, cited in: Rétrospective (1982), p.226; John Ashbery, “Tanguy: Geometer of Dreams,” in: Yves Tanguy (exh.cat.), Acquavella Galleries, New York, 1974, unpagenated.
[2] Krauss (1981), pp.29-31.
[3] Ibid., p.28.
[4] The segmentation itself by semiotic concepts is not the purpose of this thesis. For the time being, it is useful to limit the segmentation, signifiant and signifié, so as not to complicate the discussion.
[5] “Nothing abstract… / Not at all! It’s not at all abstract! (…) / An ideogram, rather than an idea. / Yes, it is, an ideogram, it’s exact.” Miró (1977), p.72.
[6] “The automatic drawing taking its source in the unconscious, must appear like an unforeseeable nativity. The first graphic apparition on the paper is pure gesture, rhythm, incantation, and as a result: pure graffiti. It is the first phase.
In the second phase, the image (which was latent) claims its rights. When the image appears, we must stop. This image is only a vestige, a trace, a ruin. Needless to say, a stop between these two phases must be avoided. If there were a pause, the first result would be absolutely abstract, and the insistence in the second phase would be surrealistically academic! This state, I don’t know sure means to provoke it. It’s a little like grace, in theology.” André Masson, “Propos sur le surréalisme,” in: Médiations, no.3, autumn 1961, reprinted in: Masson (1994), p.37.
[7] “In 1925 I exhibited at the first surrealist group show and contributed to their magazines. They encouraged me to ferret out the dream, the idea behind my plastic work, to give it a name. For many years, roughly from the end of 1919 to 1931, I interpreted most of works. Often the interpretation was more important for me than the work itself.” Arp (1958), p.14.,
[8] Caillois (1974), unpagenated.
[9] Ibid..
[10] Roger Caillois, Au cœur du fantastique, Gallimard, Paris, 1965, p.45.
[11] 鈴木雅雄「ギヴ・ミー・ユア・ブック ―― ブルトンとホピ・インディアンの出会いに関する覚書」、鈴木雅雄、真島一郎編『文化解体の想像力 シュルレアリスムと人類学的思考の近代』人文書院、二〇〇〇年、pp.298-299Suzuki Masao, “Give Me Your Book: Note sur la rencontre entre Breton et indients d’hopi,” in: Suzuki Masao and Majima Ichiro (ed.) L’imagination de démontage culturel: Le modernité du surréalism et d’une pensée anthropologique, Jinbun-syoin, 2000, pp.298-299.
[12] Ibid., pp.299-300.
[13] Levaillant (1991), pp.104-105.
[14] 宮下誠「マックス・エルンストと受容美学」『逸脱する絵画』法律文化社、二〇〇二年、p.299Miyashita Makoto, “Max Ernst and the Reception Aesthetics” in: Deviating Painting, Houritsu-bunka-sya, 2002, p.299.
[15] Wolfgang Iser, Der Akt des lesens, Theorie ästhetischer Wirkung, Wilhelm Fink Verlag, 1976.
[16] Simply I use this word in the nuance that the meaning of that image is unclear.
[17] Max Ernst, “Inspiration to Order,” in; This Quarter, vol.5, no.1, September 1932 (Surrealist Number), pp.79-80.
[18] Ibid., p.80.
[19] Krauss (1981), pp.31-34.
[20] Rosalind Krauss, “Magnetic Fields: The Structure,” in: Rosalind Krauss, Margit Rowell (eds.), Joan Miró; Magnetic Fields (exh.cat.), Solomon R. Guggenheim Foundation, New York, 1972, pp.11-38.
[21] Caillois says concerning Tanguy’s images “It only dépayseElle dépayse seulement.” I think this remark is concerning dépaysement’s sensative effect. Caillois (1974), unpagenated.
[22] Some critics pointed out that Tanguy’s images avoid conventional symbolism by having no reference to reality. James J. Sweeney, “Iconographer of Melancoly,” in: View (1942), unpagenated; Breuning (1945); Robert Lebel, “La morphologie conjuratoire de Tanguy,” in: Rétrospective (1982), p.34. Of course there are some exceptions in his drawing works; sometimes human eyes or mouths appear.
[23] Some critics pointed out that there is no surrealist juxtaposition in Tanguy’s images. Breuning (1945); Nicolas Calas, “Magic Icons,” in: Horizon, no.83, London, November 1946, p.311.
[24] André Breton, “D’une decalcomanie sans objet préconçu (Décalcomanie du désir),” in: Minotaure, no.8, Albert Skira, Paris, juin 1936, p.18, reprinted in: Breton (1965), p.129.
[25] Décalcomanie is a kind of Rorschach test. Carl Gustav Jung compares Tanguy’s image with it. Jung (1958), pp.102-108.
[26] Caillois (1974), unpagenated.
[27] Matisse (1963).
[28] Gordon Onslow-Ford, “Yves Tanguy and the New Subject in Painting,” in: Maur (2001), p.201.
[29] Sweeny (1946), p.23.
[30] Mundy (1983).
[31] Richet (1922).
[32] The titles cited are below (these are not necessarily exact citations of Richet’s book). ”Tous ces détails étaient exactes,” “Maman, papa est blessé,” “Mort guettant sa famille,” “Il faisait ce qu’il voulait,” “Vite! Vite!..,” “Je suis venu comme j’avais promis. Adieu,” “Finissez ce que j’ai commencé,””Fumier à gauche, violettes à droite,” ”Elberfeld,” “Le 4 juin je ne vois plus,” “Leur ventre blanc m’avait frappé,” “Je m’en vais, venez-vous?,” “La lueur ressemblance,” Subtitle is ”Quand on me fusillera.”The actual works are not identified other than from first to 8th titles.
[33] Richet (1922), p.339.
[34] Mundy (1983), p.203.
[35] Ibid., p.206.
[36] Of course, there could be other ways. 1. titling realistically; for example, to describe the beings painted concretely like this “red and white and green beings that seem to be soft, standing at the right of the canvas and their shadows,” or only the number of order of the work, or only the date. 2. clarifying the source of the painting, if it exists; for example, “the seashore of Bretagne.” 3. naming the amorphous beings clearly.
In the case of 1, an interpretation at the level of title is impossible. In the case of 2, because the title and the image correspond to each other, the aspect of “legibility / illegibility” does not occur. In the case of 3, the title and the image again correspond to each other but there is a possibility of interpretation concerning its name. However Tanguy did not choose any of these; he continued to use titles as a device to add the aspect of “legibility / illegibility,” namely “infinite” structure with the possible exception of Multiplication of the Arcs mentioned in the introduction.
Alternatively, according to Matthews, the titles of Tanguy’s works could be interpretations of Tanguy himself applied to the painted images. In this case, Tanguy gives one example of interpretation, though it is not absolute. John H. Matthews, “Yves Tanguy,” in: Eight Painters, the Surrealist Context, Syracuse University Press, Syracuse, 1982, pp.73-74.
[37] 佐々木健一『タイトルの魔力』中央公論新社、二〇〇一年、p.146, 238Sasaki Ken-ichi, The Magic of Title, Tyuou-kouron-shin-sya, 2001, p.146, 238.
[38] Brion (1961), p.178.
[39] Of course, it is possible to consider that these works’ transition constructs a meaning. For example, “the generation of a world.” Brion (1961) pp.171-184; 澁澤龍彦「混沌から生成へ タンギーの世界」『幻想の画廊から』青土社、一九七九年、pp.44-51Shibusawa Tatsuhiko, “From Chaos to Generation: The World of Tanguy,” in: From Fantastic Gallery, Seido-sya, 1979, pp.44-51. There is also an attempt to connect the particularities of the works’ transition to literature. Marianne Kesting, “Erschaffung, Verwandlung und das Ende der Welt. Literarische Parallelen zum Werk Yves Tanguys” in: Schmidt (1982), p.79-91. Likewise, this thesis although deals with Tanguy’s works as a continuity. However, it does not attempts to equate this continuity to a story.
[40] André Breton, Rionel Abel (tr.), “What Tanguy Veils and Reveals” in: View (1942), unpagenated, reprinted in: Breton (1965), p.179.
[41] The word “concrète” had already appeared in Breton’s foreword on the occasion of Tanguy’s first solo exhibition in 1927. André Breton, “Yves Tanguy,” in: Yves Tanguy et objets d’Amérique (exh.cat.), Galerie surréaliste, Paris, 1927 reprinted in: Breton (1965), p.44.
[42] 鈴木雅雄「訳者あとがき ―― シュルレアリスムにとってサルバドール・ダリとは誰か」、サルバドール・ダリ著、鈴木雅雄訳『ミレー《晩鐘》の悲劇的神話 「パラノイア的=批判的」解釈』人文書院、二〇〇三年、pp.260-262Suzuki Masao, “Postscript by translator: Who is Salvador Dalí for Surrealisme,” Salvador Dalí, trad.Suzuki Masao, Le mythe tragique de l’angelus de Millet: Interprétation « paranoïaque-critique », Jinbun-syoin, 2002, pp.260-262. Suzuki also attempts to grasp visual images of surrealism through the point of view of “figure” or of “character.” 鈴木雅雄、林道郎「往復書簡 シュルレアリスム美術をどう語るか」『水声通信』二三号、二〇〇八年三/四月、pp.34-56Suzuki Masao and Hyashi Michio, “Correspondence: How Do We Relate Concerning Surrealist Visual Art,” in: Suisei-tsushin, no.23, March-April 2008, pp.34-56; 鈴木雅雄「「絵」と「記号」のあいだ 「図」としてのシュルレアリスム美術」『水声通信』二五号、二〇〇八年七/八月、pp.40-52Suzuki Masao, “Between ‘Painting’ and ‘Sign’: Surrealist Art as ‘Figure’,” Suisei-tsushin, no.25, July-August 2008, pp.40-52; 鈴木雅雄「ロプロプは何を紹介するのか シュルレアリスムと「キャラクター」の問題」『水声通信』二七号、二〇〇八年一一/一二月、pp.36-45Suzuki Masao, “What Loplop Introduces?: The Problem of Surrealism and Character,” Suisei-tsushin, no.27, November-December 2008, pp.36-45.
[43] In this thesis, what is called “the realm of image” is what is left. If we subtract it from a visual image the parts of physical existence and the elements exchangeable with words. The purpose of this thesis is not to name this element exactly or to make it an exact concept, but to point it out. As philosophical discussions concerning image, for example, I can mention that of Bergson. He considers image as the being between thing and representation, and he considers physical matter as integral to images, in the 7th edition (1911) of Matter and Memory (1896). Though the object of recognition is image, it is image existing as real thing in itself. Therefore he always considers image not as an abstract thing but as a concrete thing.
[44] Letter to Emily Genauer, 20 June 1947, coll. Archives of American Art, New York, cited in: Mundy (1983), p.199.
[45] Tanguy (1954).
[46] André Breton, Rionel Abel (tr.), “What Tanguy Veils and Reveals” in: View (1942), unpagenated, reprinted in: Breton (1965), p.179.
[47] André Thirion, Révolutionnaires sans révolution, Édition du jour (Montréal), Robert Laffont (Paris), 1972, p.97.
[48] Waldberg (1977), p.10.
[49] Sage (1996).
[50] Tanguy (1993), p.80.
[51] Soby (1949), p.3.
[52] Jean-Christophe Bailly, “Yves Tanguy, le silence,” in: XXe siècle, Paris, vol.36, no.43, décembre 1974, unpagenated.
[53] Waldberg (1977), pp.150-153.
[54] 丹生谷貴志「タンギー/「何もない」絵画」『版画芸術』五三号、阿部出版、一九八六年、pp.148-149 Nibuya Takashi, “Tanguy / The Painting Where “There is Nothing,” in: Hanga-geijyutu, no.53, Abe-syuppan, 1986, pp.148-149.