帯に曰く、
「芸術はいかにして〈神〉となったのか 宗教に代わる新しい支配原理となっていった芸術の思想を、民族、歴史、文化などの問題とからめて論じていく。」
「この本は「芸術」否定の書である。しかし、個々に存在している作品を否定する書ではない。むしろ、あまりにも高みに押し上げられ、崇拝され、礼拝される西欧近代の芸術思想が……芸術を思いあがらせ、逸脱させ、暴走化の方向へ導いてきたことを自覚し、作品をもっと等身大のものとして見る方向で、個々の作品のあるべき価値をもう一度確認する手がかりを見出そうとする書である。(本書「あとがき」より)」
著者の主張に賛成するか反対するかは別としても、現時点において、「芸術」とは何かを考える上での基本文献。多岐に渡る論点、指摘を含み、著者の「芸術」に対する相反する感情も垣間見られる。
序章 芸術家伝説
西欧の前近代あるいは非西欧世界の芸術家伝説は、きわめて大まかに分類すれば、「才能発見」伝説と「完璧な伎倆」伝説に集約できる(8)。そして後者の「完璧な伎倆」伝説が意味するところは、「人を仮想上のヴァーチャル・リアリティーの世界に導くことのできる、一種の魔術的技術への賞賛と畏怖であった」(10)。こうした前近代の芸術家伝説はかなりの広がりをもっている。「なぜなら歴史主義の思想が成立する以前の前近代世界において、芸術家と芸術の価値や特性というものが個性の発展史のなかで捉えられなければならないという発想そのものが存在しなかったからである」(14)。
「前近代の芸術家伝説は[……]社会と芸術が求める価値の間に断絶のないときに、人々が芸術と芸術家を理解する最も直接的で、最も有効な手段だったのである。前近代の芸術家は社会と価値を共有して生きていたため、近代のような芸術の自律的価値も知らなければ、その要求の必要性も感じることなく社会との一体感のなかに生きることができた。前近代の社会は言葉の厳密な意味において、「芸術家」という概念を知らなかったし、それを要求する必要さえ感じていなかった。彼らにとって「芸術」は存在しなかったのである。また「芸術家」も存在しなかった。存在していたのは「技術」者だったのである」(15)。
一方で、西欧近代の芸術家像は、極言すれば二つのそれに還元される。「ひとつは「芸術」という神に殉ずる殉教者的芸術家、ないしは「芸術」という神の神聖価値を求めて絶えざる探究へ没入する求道者的芸術家像である。もうひとつはすでに前者のなかに内在的に含まれている要因であるが、芸術家自身の内面における葛藤、逃走がそのエネルギーを自己の外に向けたときに具体的なかたちとなって現れる芸術家像、つまり反逆者的芸術家像ないしは道化的芸術家像である」(19)。そして「近代芸術の本質とは反権力と反社会性のなかにある」(25)。
「一八世紀後半から一九世紀初頭にかけて起こった、この宗教と芸術の位置の逆転、いいかえれば「政教分離」の思想の成立と新たな「芸術」の概念の成立は非西欧圏の人びとの想像を超える巨大な思想の変革であった[……]だがこのプロセスはヨーロッパの政治、経済、社会、思想、芸術、宗教、教養体系などの全領域的な問題、総合的な諸問題が複雑に絡み合った網目状の相互作用、相互浸透のなかで起きているのである」(30)。
第一章 芸術の価値とは何か
「芸術」とは過去二〇〇年前にヨーロッパにおいて「創出」された観念にすぎない。「いいかえれば「芸術」とは特殊ヨーロッパ的な「発明」品にすぎないのである」(33)。
その端緒の一つがヴィンケルマンによるギリシア彫刻の発見だが、「ヴィンケルマンはギリシア人とギリシア彫刻を発見したのではない。彼はまさにそれらを「発明」したのである」(39)。
「ギリシアがローマを通じて何ひとつ継承されなかったゆえに、ギリシアを模倣してヨーロッパを偉大な存在にしようというのが、ヴィンケルマンの主張である。この主張があってはじめてギリシアがヨーロッパ精神に接ぎ木され、あたかもギリシア精神が、不断にヨーロッパ精神に対して伏流水のごとく養分を補給し、それを涵養してきたという「ヨーロッパ・イデオロギー」が一般化され、結果として「神話としてのギリシア」が形成されてきたのである」(41)。
ヴィンケルマンは王侯、貴顕たちに、ギリシア美術の虚飾を配した簡素な美の精神を説き、奢侈なる芸術に代わる質実剛健な芸術の精神を説く(44)。「華美から質実剛健へ、奢侈から節約へ、祝祭政治から官僚政治へというのが、もはや先がなくなった専制君主たちの願望となりつつあった。専制君主たちの願望に最も具体的なイメージを与えたのがヴィンケルマンの思想であった」(53)。
「この思想を見取り図として進めば、政権は無傷のまま祝祭政治から脱することができるばかりでなく、新たな「教養市民」国家へ転換できる。さらには教会と聖職者を国家へ帰属させ、市民法のもとで「セキュラリゼーション(secularization)」することができる。
「セキュラリゼーション」は日本では通常「世俗化」と訳されていて、[……]だがこれは厳密にいえば一八世紀の歴史用語で、教会の土地財産の「俗領化」を意味する言葉である。もちろんそこから派生的に聖職者の国家公務員化、教会と聖職者の国法による処遇をも意味するようになる。いうなればそれは宗教の進展の内在的なプロセスではなく、政治によって外在的に加えられる力のことなのである。
それとあいまって「政教分離」はわれわれの一般的な歴史認識と異なって、国家が宗教(キリスト教)に対して外から加えた力によって生じた政治的結果を意味するのではないことを加えておかねばならない。政教分離とは一八世紀後半から一九世紀にかけて、国家と宗教の対立が激化し、歴史上かつてなかった新しい政治と宗教の関係が生み出されていくなかで両者の和解が不可能となったとき、教会の側が「キリスト者の自由」を守るためにみずから国家への関与から身を引いたことである。[……]
そしてキリスト教が国家権力から離反した空隙を埋めるために、近代国家によって生み出されたのが「市民宗教(レジオン・シビル)」(社会宗教あるいは国家宗教)であり、新たな「神」というより「神々」として祀られたのが「芸術」「歴史」「文化」「科学」である。そしてそれらの神々を祀る新しい国家神殿がミュージアムなのである」(53‐55)。
つまり芸術の自律的価値の思想は芸術の内在的原理から生じてきたものではない。
「[……]もう一度繰り返して言えば、一八世紀の専制君主政諸国家が、すでに内部矛盾に苦しみ、わずかながらも政策の方向転換を図ってきたなかで、つまり「宗教」を完全に裡にとり込んでいき、宗教に代わって道徳を国家法の体系に組み込み、そこから漏れてしまう人間の内面的価値を「芸術」に付託してきたプロセスのなかで、「芸術」はその自立的価値を確かなものにしてきたのである。また近代国民国家もこの啓蒙専制主義の政策を継承し、アルス、テクネを「科学」「技術」「芸術」に分割し、国家制度のなかに組み込んでいくことで、それぞれの自律的価値を「近代のイデオロギー」にまで発展させたのである。
また西欧のキリスト教がその教義を独自の神学体系にまとめあげ、それ自体が政治に依存しなくても「自律性」を維持することができたゆえに、つまり政治からの干渉を断ち切って、自己の存続と発展をみずからの力で推進していく力を蓄えてきたゆえに、芸術にも「自律的」な価値を与えることができるのである」(62‐63)。
また「芸術が自律化すると、芸術の制作と評価基準が「創造性」「独創性」「個性」というものになる。ヨーロッパの伝統において「創造する」(create)という言葉は神のみの属性を表わす語であって世界の聖なる創造ということを明確な背景として使われてきた。創造、創造的という概念が芸術家の営為に転化させられるまで、それは神のみがなしうる行為であって、人間の行為について使われるときは、クリエイトとかクリエイションなる語は「狂気のつくり出した幻」「熱にうなされた頭がつくり出す妄想」とほぼ同義のものを意味していた」(64)。この語は一八世紀末に芸術に関して肯定的な意味を獲得する以前は、人間に関しては負の意味を付与されていた。
第二章 革命思想としての啓蒙主義
「啓蒙主義は芸術を解放する。[……]暫定的な結論としていえば、芸術は理念的に「職能」から解放され、自律的な価値を与えれたということである。[……]これを突き詰めていくと「芸術家」とは理念的にはみずから神となって、自己の作品を通じて、歴史と社会がいまだ発見しえなかった新しい価値を創出する「創造者」となることである」(67)
「わたしの論述は[ルネサンス期のような]メタファーで語られる芸術家の存在に対してではない。啓蒙主義がメタファーとしてではなく、近代の新しい神格そのものである「神としての芸術家」、つまり神のごとき芸術家ではなく、神そのものとしての芸術家をどのように「創出」していくのかを見ていくことになる」(70)
著者によれば、啓蒙主義とは「ルネサンス、宗教改革、フランス革命、科学革命、産業革命よりも重要で、世界史的な「革命的事件」といえるのである。こういったいい方は正確ではないかも知れない。なぜならルネサンスも宗教改革も、フランス革命や科学革命、産業革命もすべて西欧の「啓蒙主義」の一連の構成要素だからである。ある意味で啓蒙主義とはそれらすべての総和なのである。
啓蒙主義とは「伝統社会」からの脱却である。伝統社会とは先例主義と規範主義の社会である。先例主義と規範主義社会とは権威主義社会である。権威主義社会とは「神話」を必要とする社会である」。だが「世界宗教を受容してしまった社会は伝統社会の権威と宗教的権威の間に分裂がもたらされてしまう。
西欧の啓蒙主義は一種の荒療治によって、西欧社会に生じたこの「分裂」を克服しようとするきわめて大胆な、世界史に例を見ない社会「革命」の思想だったのである」(81)。
「カントが宗教と政治権力に対して行ったことを「芸術」の分野でおこなったのがヴィンケルマンであり、後続のレッシング、ヘルダーなどである。彼らがおこなったことは、啓蒙思想家と同様、造形芸術や文芸の領域において過去のすべての伝統的な権威的理論への反逆であり、またその克服である。具体的にいえば、伝統的な「自然模倣論」(ミメーシス理論)の克服と芸術判断の中心に据えられた「趣味論」の廃棄である」(103)。
「啓蒙主義の芸術論がめざしたのは、「人間の精神は何も創造することができない」というテーゼの克服であり、人間精神を神に代わる創造者の位置に高めることであった。ヨーロッパの芸術理論の伝統では次の二つの絶対的な前提とその枠を超えることは思いつきさえしなかった。ひとつは、「創造」は神のみの属性であって、被造物にすぎない人間のいかにすぐれた技術的産物も被造物の世界の枠内での仕事であって、それを「創造的」などと考えること自体が神の御技に対する冒涜にすぎないという前提である。もうひとつはプラトン的なイデア論の伝統である。「芸術」とは自然の模倣であり、自然もイデアの写しにすぎないので、芸術はイデアの写しの写しである。どのような天才的な芸術家であろうとも、「〈自然〉そのものの枠を破るべきではないし、また破ることはできない。彼の役割は存在しえないものを想像することではなく、存在しているものを発見することである」[シャルル・バトゥー『芸術論』]という枠である」(105)。
第三章 芸術神学の誕生
「ともあれ、一七、一八世紀においては「科学」「技術」「芸術」は、いまだ未分化でほぼ同一概念枠のなかに留まっていた。歴史的により精確な言い方をすれば一七世紀までの諸学芸、諸技術、諸芸術はすべてラテン語の「アルス」のなかに括られていた。いわゆる中世ヨーロッパ以来の一般教養の「自由七学科」(ラテン語ではセプテム・アルテス・リベラレス、英語ではセヴン・リベラル・アーツ)の①文法、②修辞、③弁証法、④幾何、⑤算数(数学)、⑥天文学、⑦音楽は、本来、奴隷でない自由人にふさわしい教養科目として「不自由(奴隷的、肉体労働的)な七科目」、①機械術、②建築術、③航海術、④農耕術、⑤狩猟術、⑥医療術、⑦演劇術と区別され、より特権的な位置を与えられ、また中世神学教育では自由七学科は神学研究の基礎と予備的な教養科目としての正統的な意味を与えられ、のちもその伝統的な重要性を保持してきた」(117)。
「「芸術」がその大いなる価値を発見されることは、それはかならずしも芸術そのものの本来的価値とはいいがたく、西欧の近代思想が虚構としてつくりあげてきた壮大な「虚像」という部分があることも認めておかなければならないのである。[……]この壮大な「虚像(フィクション)」としての「芸術」の観念とこの観念信望の出発点にあるのは「美学」の成立と「美術史研究」の成立という二つの契機である。
「「芸術」がその大いなる価値を発見されることは、それはかならずしも芸術そのものの本来的価値とはいいがたく、西欧の近代思想が虚構としてつくりあげてきた壮大な「虚像」という部分があることも認めておかなければならないのである。[……]この壮大な「虚像(フィクション)」としての「芸術」の観念とこの観念信望の出発点にあるのは「美学」の成立と「美術史研究」の成立という二つの契機である。
この二つの契機とは、教科書的な解説になるが一七五〇年のバウムガルテンの『美学』と一七五五年のヴィンケルマンの『ギリシア美術模倣論』の出版である。この二つの契機がはっきりした実体をそなえてくるのは一七六四年のヴィンケルマンの『古代美術史』と一七九〇年のカントの「美的判断力の批判」という論文が発表されたときである(これを完成させたのが『判断力批判』である)。
美学と美術史の出現が西欧における「芸術」価値の底上げの役割を果たしただけでなく、「芸術」の神聖価値の布教と芸術崇拝の思想を生み出すさざまの観念装置の基礎をつくりだしたのであるが、そもそも美学と美術史とはなんなのだろうか。美術史についてはごく表層的に考えても、それがどのような学であるかは理解できる。またその学の存在と輪郭を知ることはそれほど難しいことではない。ところが「美学」とは何か、それがどんな学問なのかは専門家さえ答えられないであろう。なぜなら、「美学」の専門家が今日存在すること自体がとてつもないアナクロニズムで、それは完全に歴史的な役割を果たし終えており、没落し、無用で無意義な学問になりさがってしまっているからである。[……][今日の美学は]本質的に居候学問であって、なんら独立的な学的領域も方法論ももたないものである」(132-133)。
「一八世紀後半から一八三〇年代までは、美学は「芸術」価値の発見に決定的な役割を果したのである。なぜそのような役割を美学が果しえたのかといえば、きわめて逆説的であるが、美学が「芸術」の研究ではなく、いわゆるバウムガルテンの『美学』の本義がそうであり、カントの『判断力批判』がそうであるように、人間の「感性的認識」の特性を探求する学であったからである。つまり、それは芸術の研究ではなく、感性の研究だったのである」(134)。
「いいかえれば「美学」とは感性の全領域を探求する学ではなく、美的対象のみを感受しうる心の動きとしての「感性」と命名された特殊領域の探求なのである。そこから発見されてきたのが、「趣味」(Geschmack)と「美」(das Schöne)である。わたしたちはこの「趣味」という語と「美」という語を理解しようとするとき、その語の一般的用法を完全に忘れなければならない」(135)。
「カントの「批判力」、つまり「判断能力」そのものが「趣味」の別名であるように、[……]また、カントやドイツ観念論一般の「美的判断(エステティッシエス・ウアタイル)」も[……]個々人の間で相異なり、また民族や地域集団間でも異なり、さらには個人にあってさえも生活を通じて変化し続けると考えられるようなものではなく、個人の差異を超えた客観性と妥当性と普遍性をもった美的価値を認識する能力であり、また先験的な、いわゆる生まれながらの、人間に備わった「美意識」に由来するものである」(136)。
「この時代の芸術論上の「美」は日常的用法とは別のもので、ある特別のもの、つまり「理想美」という意味である。そもそも「芸術」とは「美」と直接的に結び付くものではなく、まら芸術の目的は美を求めることではなかったし、現在の芸術の大半も美を求めることをその活動や仕事の目標とはしていないのである。「芸術」と「美」が結び付けられたのは「美学」と「古典主義美術思想」の美術観においてはじめてなされたことである」(136)。
「「美学」とは芸術作品の具体的な理解や作品製作における具体的な知識に関しては何ひとつ役に立つことのない学なのだった。そんな美学が「芸術」の歴史に重要な役割を演じたのは、芸術の倫理的価値を保証する学であったためである。きわめて逆説的な事実であるが、自律的な価値を要求する芸術が、その倫理的価値を「美学」によって保証してもらうことが必要だったのである[……]
[……]このようにこの時代の「美学」と「芸術論」は、「宮廷文化」の欲望論から芸術を解放し、市民社会の倫理的な禁欲主義の思想に一体化させようとするものであった」(137)。
「「芸術」の神聖化とは、芸術を権力や権威の装飾にするのでもなく、また実用価値や効用価値といった利用的役割から解放し、芸術それ自体が自己目的であるようなもの、つまり現実生活上の利用価値はもたず、あたかも純粋な遊びというものが遊ぶこと自体を自己目的とするような、そんな「遊戯精神」に由来し、それゆえに芸術がいかなる拘束からも逃れた「自由」を享受し、またみずから楽しむがゆえに人をもまた楽しませ、人間精神を解放するものにしていくことである」(143)。
「[……]「芸術」活動というものが、人生の全領域の変革ともつながる要因を秘めていたというのは、それがキリスト教信仰という生活のすみずみにまで浸透していたヨーロッパ人の生の全体とかかわる宗教観と、人間支配を絶対化する正統的な権力の不可侵性を植え付けてきた政治領域との、二つの神聖領域への懐疑を人びとに呼び覚まさせたからである。具体的にいうなら教皇庁を中心とするカトリックの世界観と神聖ローマ帝国の皇帝権力の世界観という政治と宗教が一体化されたヨーロッパ世界の全伝統に対する否定の思想が、この新しい「芸術」思想のなかに秘められていたということである。
ではなぜ「芸術」の思想がこのような人類史上の大変革を可能にするような突破口となりえたのだろうか。それを突き詰めてみると、「自由」の発見ということになるであろう」
(147)。
「いいかえれば、西欧における自由の概念の成立と自由という観念体系の確立の出発点にあったのは「芸術的自由」であったということである。
[……]カントの用語に「自由美」(freie Schönheit)というものがある。それはカントによれば、認識の自由な遊び(freies Spiel)において成立し、なんら特定の概念志向を手がかりにしなくてもよいものということである。カントはこの自由美をまた「純粋美」とも呼び、それが目的にかなったものであるか、またそれが完全なものになりうるのかどうかということも考える必要のない状態のなかで、おのずと現われでるものというふうにいっている」(150)。
「カント哲学が偉大であり、また偉大といわれるのは「自由」と「道徳」の規準を個々人間の「人格」のなかに求めうる論理体系を創り出したことである。「自由」がはじめて道徳的観点から明らかにされ、「道徳」が人間の先験的理性と経験的な悟性のなかで、人間の人格性と人間性(パーソナリティとヒューマニティ)のなかで成立可能な基盤を求められる論理を構築しえたということである。これがどれほど革命的なことであったかは、このカントの理論によって人類ははじめて「神」を必要としなくともよい思想を持ちえたのだということを考えればおのずと明らかになるであろう」(152)。
「ともあれ、啓蒙とは人間のすべての制度が人間自身の悟性の活用と自己責務のなかで創出される、時代の出発の宣言なのである。「神」は必要ない。人間が「正義」の判断者、「真理」の発見者、「美」の創造者になっていくべきである、というのが啓蒙の宣言である」(153)。
第四章 「民族」「歴史」との一体化
「[……]ロマン主義的反動というのは啓蒙主義に対立して出てきたものではなく、啓蒙主義そのもののなかから必然的に出てきたものである。啓蒙主義とロマン主義はそれぞれ別なものではなく同一のものの表裏なのである」(158)。
「歴史があるがままの事実であると思わせるのが、歴史叙述の本質である。あるがままの事実などは存在しない。歴史とはつねに整序された歴史、創られた歴史であって、事実そのものではない。今わたしたちはすこしずつそこから脱出しつつあるとはいえ、近代の歴史はすべて「国民」の歴史であり、すべて「国民」というフィルターを通じて整序されてきた歴史なのである」(167)。
「芸術を論じる本書がこのように啓蒙主義とロマン主義の対立、「文化」と「文明」概念の対立に深入りしてきたのは、このことが西欧における「芸術」という観念体系の拡大と深くかかわっているからである。また芸術という概念が生成してきたのもドイツにおいてであり、その観念体系が確立されてきたのもドイツにおいてだからである。
[……]もうひとつドイツが他国に先駆けて「芸術」概念を強固なものとなしえたのは、「芸術」という概念を「民族」「歴史」「文化」「自由」という概念と結合させることができたことである」(175)。
「[……]ヘーゲルは芸術の本質の探究としての「美学」と芸術の歴史記述をめざす「芸術史」学の融合を試みようとする。ヘーゲル以後の美学が、芸術認識においてほとんど無意味な冗語に堕し、破産した学問領域となって、芸術理解への道を「芸術史」に譲ってしまうのは、芸術と歴史、芸術と民族精神の関係、芸術認識が芸術史の理解と不可分な関係にあることを忘れ去ってしまったためである。極論していえば、芸術の理解にとって「美学」などははじめから不要なものであった。芸術の認識は芸術の歴史の認識に行きついてしまう。なぜなら芸術とはヘーゲルのいう「歴史を支配する永遠の力を浮かびあがらせる」ものだからである。芸術とはどのような現実の断面を切り取る作業に没頭しようと歴史を支配する永遠の力としての普遍性と個別性の融和のうえで成り立つものだからである」(179)。
「ではなぜ、「芸術」が芸術家の「個性」以外の「民族」や「歴史」と三位一体の神格のなかにとりこんでいったことが重要だったかといえば、それがキリスト教という神聖政治と絶対主義王政という威光主義政治を無力化させ、「政教分離」という新しい政治文化の原則を樹立するための基礎となったからである」(190)。
第五章 制度化された芸術
「「芸術否定論が公然と表明されないのは、それが近代の「神」だからである。芸術信仰は近年、その神通力を著しく失ってきているとはいえ、芸術の「異端審問官」たちは、まだまだ健在である。そして始末が悪いのは審問官たちが自分が審問官であることに気づいていないことである。
きわめて逆説的なことだが、芸術否定の精神と思想が偏在していた前近代世界においての方が、芸術が神となった近代世界においてよりも「芸術」ははるかに偉大だった。換言すれば、「芸術」が芸術でなかった時代の方が、芸術がより本物の芸術であることができた。
はっきりいってしまえば芸術作品が偉大ですごいというよりは、「芸術」という観念の作用力のほうがもっと大きく強いということである。肥大化した「芸術」という観念の見直しが必要な時期に来ている。しかし、まだ「芸術」そのものの否定にまでは至っていないし、その始動の兆しも確認されていないが、「芸術神学」への批判は顕著になってきているといえる。とくに「文学史」「美術史」という芸術神学の神通力は今ではすっかり失われかけている」(222)。
「「本来ありもしなかった連関」「作者自身も自覚しなかった連続性」「存在もしていなかった順序と連鎖」といったものを創りだすことが「芸術神学」の最大目標である」(224)。
「礼拝に基づく芸術の観念体系が消滅してしまってもよいし、むしろ消滅してしまうべきだという点ではわたしもベンヤミンの考え方には同調する。しかし「芸術」が「技術」、つまりテクノロジーによって外部から崩壊させられるという考え方には賛成できない。わたしは「芸術」は「技術」との対決のなかで、その戦いに敗れて衰退の道をたどるのではなく、内部からの「思いあがり」と「不遜」から自滅の道をたどり、「芸術」「技術」「科学」が未分化のままにあった「アルス」の状態の謙虚な精神をふたたび自己のものとするとき再生の展望が得られるものと思っている」(229)。
「芸術が無目的であり、「無用の用」の最たるものだということは、芸術が現実の生活に役立たないということではない。むしろあまりに多面的な用、究極的な用に適っているがゆえに実用的な用とは本質的に異なるものだというのである」(247)。
「西欧近代の芸術研究(芸術史、芸術論、芸術批評)がこのように「無用の用」、「無目的の目的」の理論化の方向を歩み出したのは、その当初のプログラムから考えても必然の経路であった。なぜならそれは「芸術」を集団的目的から切り離し、それ自体の自律的価値の主張から出発したからである。それは宗教と政治という権威と権力への奉仕からみずからを引き離すだけで満足するのではなく、さらにはそれ自体がひとつの「聖性」を帯びた存在になることをめざしていくのである」(248)。
終章 芸術崇拝の行方
「芸術作品が「展示価値」へ移行したということは、人類史上革命的なことである」(270)。
「[……]近代国家がその出発点においてすでに「ミュージアム」と「エクスポジション」行政に着目し、その政策を実践していったのは、「展示」という特権を明確に国家特権に育てていく必要性を強く意識していたということである。ではその国家特権はなんのために使用されたのか。それは絶対王政主義下の「臣民」を「国民」と「市民」に改変し、「世論」形成の主導権を国家が完全に掌握せんがためである。それはいいかえれば、いわゆる「コミュニケーション」形成の決定権の掌握であるが、「ミュージアム」によって形成される世論は選良的、信念的なそれであって、人びとを「国民」や「民族」の方向に結集させる方向性を強くもつ。それに対し「エクスポジション」は人びとを「公衆」という方向により強く結集させる特性と利点を持つ。
「公衆」とは「群集」のような物理的集団ではなく、コミュニケーションによって形成され、保存される集団である。コミュニケーションとは思考、感情、知覚を一種の「記号化」によって伝達するプロセスであるが、記号化は人びとの思考、感情、知覚が、象徴的媒介物(者)によって共通の指標に合わせられることである。[……]公衆とは、ある象徴的記号物によって、共通の関心の対象に誘導された集団ということになる」(279)。
「「芸術」のみでなく「科学」や「技術(インダストリー)」(産業技術)をも含めて、その神話化、神格化を支えられうる存在は「公衆」のみである」(281)。
「近代国家は「国民」を国民たらしめ、「市民」を市民たらしめるためには「公衆」を育成する「公共施設」を拡大していかなければならない。だがここに西欧近代における「神」の躓の石が準備されるという二律背反が潜んでいる。「芸術」「科学」「技術」(産業技術)を神格化するための「展示」が拡大すればするほど、その「神話性」や「神聖価値」が失われ、その神聖価値を維持するためには、その「展示価値」を高めるための果てしのない展示の拡大の悪循環にまき込まれてしまう。
「展示価値」が拡大すると「礼拝的価値」よりも「展示」そのものが意味をもち、それが暴走する可能性を生み出してくる」(282)。
「[……][「展示」の暴走化を]歴史的に規定すると、西欧の芸術が「近代」から「現代」へ移行したことを意味する。[……]芸術が「礼拝価値」から「展示価値」に移行したということであるが、芸術が「展示価値」に移行したということは、それが芸術の理想の追求、人間の教化、精神の豊饒化よりも「現代」という時代の社会的課題の設定、集団的要求の明確化、歴史的使命の認識、いうなれば「今日」の同時代における問題意識の確認を第一義的な目標に設定してくるようになったことを意味する」(282)。
「[……]芸術礼拝や芸術崇拝もいったん制度化されてしまえば、かならずしも敬虔な信者のみを増やす必要はない。むしろ「公衆」という誘導可能で、誘導されることで反対に「世論」という「公論」を創り出してくれる非組織的集団さえ存在していれば事は足りるのである。ところが一八五一年の第一回万国博覧会という象徴的な事件を契機に、「公衆」という存在が不安定になっていっただけでなく、崩壊の道を辿りはじめたのである。「公衆」に代わってその存在を大きなものにして、やがては「芸術」が「展示を拡大化」させることで、かろうじてかつての芸術崇拝の余光をとどめることができるようになるのは「大衆」という存在が、「芸術」をその神聖性において必要とするのではなく、そのスキャンダリズムと芸術家たちのボヘミアン的無頼性ゆえに必要とするからである。
芸術は、だから展示を暴走させ、芸術家はピエロの役割を引き受け、またあえてドン・キホーテの役割を演じなければならなくなってくる」(285)。
「もっとも深刻で重要な「展示の暴走化」とは、「芸術家自身の展示品化」ということである」(289)。
「西欧近代の芸術の思想に対しては、最後にゲーテの言葉を贈りたい。「死して成れ」と」(292)
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