2014/02/21

ジャック・ラカンの鏡像段階

ジャック・ラカン著、宮本忠雄訳「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリI』弘文堂、1972年、pp.123-138.

Jacques Lacan, “La stade du miroir comme formateur de la fonction du je,” in: Revue française de psychanalyse, no.4, octobre-décembre, 1949, pp.449-455; Écrits, Seuil, 1966, pp.93-100.






ラカンの有名な鏡像段階(la stade du miroir)論は、1936年にマリエンバートで開催された第14回国際精神分析学会で初めて発表された。だが、この時ラカンが割り当てられた10分間という時間を越えて話を続けたため、4回の合図を数えたところで、座長であったアーネスト・ジョーンズに発表を制止された。ラカンによれば、この時の草稿は紛失してしまったらしく、学会誌(1937年の国際精神分析学会誌18巻第1部)にも索引に小さく〈Looking glass phase〉とあるだけで、要約も付されていない。この草稿の内容はアナトール・ドゥ・モンジーの要請によってラカンが執筆した『フランス百科事典』の「家族」の項目の文章(邦訳、宮本忠雄、関忠盛訳『家族複合』哲学書房、1986年、鏡像段階に関してはpp.57-64を参照)にその痕跡を窺うことができるのみである。「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」は1949年7月17日にチューリッヒで開催された第16回国際精神分析学会での発表のために書かれたものであり、鏡像段階論をまとめたものとして最も目に触れやすい。副題に「精神分析の経験が我々に示すもの」とある。
まずラカンは「この精神分析の経験はわれわれを〈コギト〉から直接由来するすべての哲学に対立させるものだと言わねばなりません」と宣言する。その上でラカンは「比較心理学の一事実」から出発する。それはある年齢の幼児が一定期間、道具的知能ではチンパンジーに劣りながらも、鏡の中に自分の姿を認知するという事実である(猿の場合、鏡像が生きていないことが確認されるとそれで終りである)。この現象は生後6ヶ月から18ヶ月にかけて現れる。これが鏡像段階と呼ばれる。ラカンはこれを精神分析でいう「同一化(une identification)」の一つとして理解する。この段階を経て初めて「わたし」は、「他者との同一化の弁証法のなかで自分を客観化したり、言語活動がわたしにその主体的機能を普遍性のなかでとりもどさせたり」(p.125)する。この鏡像という形態は理想我(je-idéal)とでも呼べるが、それは「この形態が二次的同一化の起源であるという意味においてであり、われわれはこういう用語のもとでリビドー正常化の機能を認識」(p.125)する。
だが、重要な点は「この形態が自我(moi)という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列のなかへと位置づけるということであり、 ―― むしろそれは、主体がわたしとして自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的綜合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです」(pp.125-126)。要するに鏡像は、鏡像であるが故に主体を完全に作り上げることはない。鏡像は「主体が自分でそれを生気づけていると体験しているところの騒々しい動きとは反対に、それを凝固させるような等身の浮彫りとしてまたそれを逆転させる対称性のもとで」(p.127)現れる。このため鏡像は「わたしの精神的恒常性を象徴すると同時にそれがのちに自己疎外する運命をも予示」(p.127)する。
また「個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに自己自身のイマーゴ[無意識の表象]が幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現れる分身doubleの出現を認めている以上、鏡像は可視的世界への戸口であるようにみえます」(p.127)。つまり幻覚や夢の中でも鏡像を我々が認める以上、鏡像段階は可視的世界への入り口の役割を果たすのである。
「鏡像段階の機能はそれゆえわれわれにとって、生体とその現実との関係 ―― あるいは人の言うように、内界(Innenwelt)と環界(Umwelt)との関係を打ち立てるという、イマーゴの機能の或る特殊な場合として明らかになります」(p.129)。だが自然とのこうした関係は、生まれてから数ヶ月間の〈原初的不調和〉によって変化させられる。その不調和とは「出生時の特異な未熟性(pématuration spécifique de la naissance)」であり、胎生学者が言うところの「胎児化(foetalisation)」である。「こうした発達は、個人の形成を歴史内に決定的に投影するような時間的弁証法として生きられます。すなわち、鏡像段階はその内的進行が不十分さから先取りへと急転する一つのドラマ」(p.129)である。つまり、鏡像段階においては神経系の未発達によってバラバラに寸断された身体像が、鏡像の認識を通して統一された全体像として先取りされるのである。この全体像は「ついには自己疎外する同一性という鎧をつける」(p.129)にいたる(ちなみにこの「寸断された身体(corps morcelé)」は、分析が一定の水準に達すると決まって夢の中に現れる、ここでラカンは例としてボッスの絵画にも言及している)。

 論文は以下も続くが、ここまでで鏡像段階論のおおまかな輪郭は得られる。



 福原泰平は鏡像段階を次のようにまとめている。

 福原泰平『ラカン 鏡像段階』講談社、2005年.





鏡像段階
一九三六年、マリエンバートで開催された第十四回国際精神分析学会でラカンが発表した概念に発する。鏡像段階とは私が私の外部にある鏡の中の像へと同一化することで私自身を一つのまとまりを持った肯定的な姿として構成していく過程のことをいう。
 人はその乳児期、神経系の未熟さゆえに身体的まとまりに欠けた不調和な時期(寸断された身体の不安)を過ごす。このバラバラな身体に統一性を与えて、自己に肯定的な感覚を持てるようにするのが、鏡に映った自己の像である。鏡像は主体をその魅力的な統合性のうちに虜にし、人はこれとイメージのうちに狂おしく同一化していくことになる。主体はこの外部の鏡像を取り入れ、欠けた自己自身の統一的な姿を先取りして、この場所に自我なる主体の仮面を見いだすこととなる。
 しかし主体がこのような形で自我を獲得することは、逆に自己の統合性を外部の像に委ねることになり、主体はその主人公を外部の何ものかに奪われるという皮肉な事態を迎えてしまう。結果、主体は外部の鏡像とその主導権を争う、不安定極まりない不均衡な状態に追いやられてしまう。こうした食うか食われるかといった想像的なシーソーのように揺れ動くイメージ優位の嵐の中、これを乗り越えるべく招請された次元こそ、象徴世界の父たる絶対的他者の審級なのである。この象徴的他者の出現により、主体はその主人公を自己の鏡像と相争うような決闘的なシーンを抜け出していくことができるようになるのである。
 いずれにしろ鏡像段階の概念は、人が決して意味するものの主人公ではなく、意味するものの次元こそ人々をそこに魅了し、人を人として構成していくものだとするラカンの理論の出発点にあり、また人はみずからの中心を自己の内部には見いだせないとする点で、精神分析の根本思想を明確に表明したものだといえる」(pp.343-344)。

 ラカンの鏡像段階論は、人間が如何なるものをイメージに負っているかを示す理論として捉えることも可能である。

「鏡に映った像はニセモノだ。しかし人間は、鏡に映った像、すなわち幻想の力を借りなければ、そもそも「自分」であることができない。これはイメージというものに対して、大きな「借り」ができたことを意味している」(斉藤環『生き延びるためのラカン』ちくま学芸文庫、2012年、p.89.)。

「鏡像とは自己とは差異を刻む外からきた他なるもののイメージである。
「私」と鏡像とは決して一対一対応するような同形のものではなく、それは「私」という実体の定かではない主体に衣装を着せ、主体を隠してこれをイメージのうちにすくい上げるものであり、安易に合一を許されるといった種類のものではない」(福原泰平、同上p.59)。

「こうした復讐や嫉妬、羨望や虐殺といった転変する印象が、左右に大きく揺れてとどまるところを知らないシーソーのようなイメージ優位の想像的関係の嵐の中で、これを乗り越えるべくここに招請される次元こそ[……]象徴世界(目には見えない場所で意味を支配する)の父たる絶対的他者の領域なのである」(同上p.63)。

「言語の次元である象徴界といえども、鏡像段階で準備された自己愛的な同一視を母体に、その延長上に準備されたものなのである。その意味では想像的な次元こそ、象徴的世界の基盤となっているということもできるのである。
 また、これとは逆に、鏡像段階自体の成立がこの第三の人称に支えられているという点も確認しておかねばならない重要な点である。鏡にみとれ、そこに映る統一的な全体像に魅せられる幼児の後ろには、必ず主体と鏡像ともう一つ、第三人称の他者のまなざしというものが存在していることを押さえておかねばならない。つまり、幼児は自己の鏡像をやはり微笑をもって迎えてくれる大人のまなざしの中に確認することで、はじめてそれとして受け取ることができるようになるとラカンは考える」(同上p.64)。

「本来、鏡像という像は自己と溶け合い、それに同化するもようなものではない。だが、外部の像はイメージとして自己を喚起し、自己というものを即座に呼び出してくれる。[……]こうして、自我なるものは、イメージのうちにわれわれの目前に出頭し、鏡像という想像的な下絵を持って、主体がそれとは気づかぬうちにわれわれの本質を奪い去っていくものとしてある。言い換えれば、自我とはイメージのうちに呈示された見栄えのいい本人お気に入りの仮面のことであり[……]自我は知をめぐってはなにも語らず、視覚優位のイメージのうちに示すという機能のもと、なにもない空無を包むようにこれを想像的に組み立てていく」(同上pp.66-67)。

「つまり、人は外部の対象をそのままのかたちで内部の対象へと切り出し、これを受け入れることはできない。それを内的に取り入れ、自己の欲望の対象とし定立してこれと関わるには、ラカンが鏡像段階で示唆したように、魅せられることで幻想的に示される一種、イメージとしての外的対象の心像を必要とする。こうした鏡像的他者からみずからへと戻ってくる心像というものなしには、われわれは外的な欲動の対象と関係を持ち、それを内的にみずからの対象として取り扱うことはできない。
 われわれは心像をとおして、そのイメージというヴェールにからめとることでしか、外的な対象と関わることはできない」(同上pp.73-74)。

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