Roger Caillois, “L’univers des signes,” in: XXe siècle, vol.36, no.42, Paris, Juin 1974, unpagenated, reprinted in; Obliques précédé de images, images…, Stock, Paris, 1975.
フランスの思想家による古典的なシュルレアリスム批判。カイヨワは若き日の一時期シュルレアリスムに接触したが、ほどなくして袂を分かった経緯がある。
ここではシュルレアリスムの視覚イメージに関する部分を中心に言及する。
ここではシュルレアリスムの視覚イメージに関する部分を中心に言及する。
カイヨワはまずシュルレアリスムの特徴を絵画との結びつきにおいて指摘する。
「様々な文学流派のうちで、シュルレアリスムの特徴を示すのに、絵画との特権的な、ほとんど専一な共犯関係をもってしても、あながち誇張とはいえないように思われる。言葉と図形という、表現におけるふたつの面で、シュルレアリスムはイメージに絶対的な優位性を与えている[……]絵画では風景や静物を認めない。危険を冒して抽象絵画に手を出す場合でも、いくつかのフォルムがそこに生成状態で現われていて、それらのフォルムが夢想にいわばスプリング・ボードのごときものをもたらすという条件が満たされる場合にすぎない」(p.203)。
カイヨワによればシュルレアリスムの特徴はイメージの優位性にある。では、ここでいわれるイメージとはどのようなものか、それはある特殊な状態にある記号である。
「文学と絵画のいずれの場合にも、そこにあるのはイメージであり、イメージだけ、あるいはまずもってイメージなのだ。しかもこのイメージは、詩的なものであろうと、視覚的なものであろうと、すべて人に不意の驚きを与え、問いかけをしようとする試みなのである。一言でいえば、それは知覚可能な、あるいは包括的な、確乎たる意味作用をもたない記号としてのイメージなのだ」(pp.203-204)。
「知覚可能な、あるいは包括的な、確乎たる意味作用をもたない記号」とはつまり、確定されたシニフィエ(意味されるもの)を持たないシニフィアン(意味するもの)と言い換えることができる。こうしてシュルレアリスムにおいては、「あらゆる事物は潜在的な記号となり、見者のための記号と化し、選ばれた人々に記号を送って合図するものとなったのだ」(pp.205-206)。この「すぐにも消え去るはかないメッセージ」(p.206)を捉えるために、夢遊状態、理性や道徳の束縛からの解放が称揚され、そうして無意識からの暗示を聴き取ることが可能となる。
「こうして承認済みの記号の数々によってすでに織りあげられている外的世界に、日中、目覚めている間、様々な検閲のお陰で窒息させられ、変装させられている、各個人の深淵のもつ秘密の言語が加わるのである。かくして眠りや自動記述[オートマティスム]、いかなる連続性をも、従ってまたいかなる一貫性をも破壊するよう仕込まれているなんらかの偶然などから生まれ出でたもろもろのイメージが、幻覚と同時に啓示を与える数々のロケットのごとく立ち現れるのだ。禁断の闇の中から、第二の世界(まさしくこれが超現実[シュルレアリテ]なのだが)が浮かびあがって来るのである」(p.206)。
カイヨワにとって超現実とはこのようなものである。そしてシュルレアリストの記号に対する態度は以下のようになる。
「この世界は、様々の不完全で曖昧な現れ方でしか訪れないのだが、それらの現われがすべて信号としての価値をもっているのである。それらの信号を受け取るもの、少なくともおのれをその受信者と思い込んでいる者は、自分が運命の目くばせによってひとつの関係の中に引き入れられたと考えて、それらの信号を、様々なメッセージの伝達者としての凝縮した幻のごときものとして受け取るのである。あまつさえそれらのメッセージは、もしそれに正確な解釈が下されるならば、神秘的な叙任のごときもの、ほとんど救世主[メシア]の終油とでもいうべきものをもたらすのだ」(p.206)。
そして「ここで驚くべき意味の転倒をはっきり認めねばならない」(p.207)。とカイヨワは述べる。その転倒とはつまり、かつては確乎とした情報を伝達させるものが記号と呼ばれていたのだが、(シュルレアリスムにおいては)これが逆転し、確乎とした情報を伝達しない記号がそれ故に特殊な魅力を獲得したということである。この事態をカイヨワは「白紙小切手の恩恵に浴すること」(p.207)と揶揄する。「そこで誰一人熱心にその解決法を見出そうとする者はいなくなる。なぜならば、その解決法が神秘の魅惑を打ち破ることを懼れるからだ。むしろそんな解決法が存在しないことを願い、やがてはそんなものが存在しえないように手筈をととのえてしまうのである」(p.207)。
この事態を別の言い方で表すならば、
「既知の特権的事項は記号ではないということなのである。なぜならば既知の事項はメッセージを運搬するものだからだ。従って、それが記号にまで昇級したのは、それが自然あるいは偶然の結果として、考えられるいかなる意味作用をも奪われたり、そうした意味作用を故意に搾り取られたりしながら、なおも別な意味作用を要求し続けているかのように思われ、その結果、はてしない夢想の支えとなるに適わしいだけの力をもっているからなのである」(pp.207-208)
つまり、ここでいう記号とは既知の情報を伝達するものではなく、確乎とした意味作用を持たないが故に、新たな意味作用の可能性を帯び続けるような記号なのである。
こうしてシュルレアリスムは「他のもろもろの表現手段を犠牲にしてまでも、ぎらぎらと輝く、孤立したイメージのもつ卓越した尊厳をどうしても賞揚せざるを得なかったのである。シュルレアリスムはとりわけ非論述的な文学を開拓する。それは絵画からはそれのもつ記号的な表現力だけを取り、形と色の関係というまさしく絵画的な探求は事実上無視している。さらにまた音楽に対するその絶対的な排他性も以上の点に由来している。音楽は表象とは相容れず、連続性を要求するものだからである」(p.208)。
またカイヨワは「シュルレアリスムの絵画において題名が異様なまでの重要さを有しているという事実」(p.208)を上記のような記号的観点から捉える。カイヨワによれば、それらの題名は文学的なもので、単なる題名ではなく、描かれた作品の言葉による等価物なのであるのだが、一方で、それらの題名とイメージは宙吊りの状態にある。
「このような手段を通じて、シュルレアリスムは喚起力を備えた魔法のごときものとして立ち現われるが、この魔法はイメージを用いることにその根拠を置いている。つまり、なんらかの明確な事物だとか、はっきりと定義された本質に依拠した象徴ないし寓意を用いることではなく、空っぽの引喩を用いることにその根拠を置いているのだ。従ってこのイメージは何の象徴でもなく、煉獄をさまよう霊魂のごとく不安におののいている無垢な感受性を磁化するのである。と同時に、このイメージは芸術家のもつ様々な幻覚を[……]あらわに示すが、それはこうした幻覚がイメージにとっては囮としての役割を果たすからである。いずれにしても、回帰するイメージというものは、すべて、ある種の場合、ついには補助的な言語、期待される見本目録のごときものを構成するに至る」(p.209)。
こう述べた上でカイヨワはシュルレアリスム絵画の「見本目録」を列記する。例に挙げられているのはエルンスト、キリコ、マグリット、ダリ、タンギーだが、たとえばタンギーについては以下のように述べられている。
「 ―― 最後に、タンギーにあっては、多数の巨大なアメーバ、その気密の皮膜にもかかわらず共有されているゼリー状物質で震えるいくつもの袋が見られる、喘鳴を発しているような腫瘍、それもこれも、這いまわり、探りを入れ、吸いつく吸盤や触鬚。弾性に富み、強靭で、均衡を失し、脹んでいる茸や疣[いぼ]の、なにかを模索するような突出や、その酸性の色(ブルトンによれば《透視力のもつ海王星的な光》)によって防腐処置を施された惑星の地殻が見られる。そしてなにか未完成の動物たちが、免疫になった害虫のように、そこを這い廻り、そこで繁殖している。それらはこの世のものとも、人間に関わりあるものとも思われない。それらの動物はこの世のなじみの、あるいは理解可能ないかなる姿形をも喧伝することがない。それはただ見る者をして異なった環境に引き入れて途方に暮れさせるばかりだ。それは遠い未来の、取り返しのつかないほど無縁で、閉鎖的で、懶惰[らんだ]で、腐食的な生物学の脅威によって作用を及ぼすのである」(p.211)。
そしてカイヨワは辛辣に次のように述べる。
「様々な個人的幻影に対するこうした執拗なまでの満悦から未来が何を記憶にとどめるか私は知らない。恐らく未来はそこに分別盛りの人々が粒々辛苦のすえ詭弁をもって飾り立てた多様な発育不全を見るだろう。さしあたり、私は全員がほぼ一致して、内的であると同時にやがてすぐさま紋切型なものとなってしまう様々な記号を追求していることに注意を向けたいと思う」(p.212)。
さらに絵画がシュルレアリスムにおいて重要視される理由をカイヨワは次のようにも述べている。
「絵画は、事物[もの]のもつ力によって、表現された対象に記号としての価値を付加するうえで特権的な芸術である。絵画は表現された事物を指し示したり、それを喚起したりするうえで言葉以上の力を発揮する。つまり絵画は表現された事物を見ることを強い、それを神秘的な光暈[かさ]で飾り立てるのだ。極論すれば、絵画は表現された事物に幽霊のような外観を付与し、かくしてそれがなるほど記号であるということを信じ込ませる力を持っているのだ」。
また写真については以下のように述べられている。
「シュルレアリスムが、なんらかの告白により以上の説得力を与えようとして、写真がもつ様々な妖術に頼るとしても、それはなにも偶然によるものではない。作者は、その時、秘密をあばくような、あるいはその瞬間自分の目にそのようなものとして映るなんらかの事象に捕えられ、その告知を受けると、自分が感得した混乱の証拠を目に見えるものとして提供することができる。彼は明確で動かし難い資料によって、自分と同じ驚きもしくは混乱を読者に体験させようというのではないにしても、少なくともそうした事象から彼自身がどのようにして驚天動地の衝撃を受けたかを理解できるような状態に読者を置こうと試みるのだ」(pp.212-213)。
最後にカイヨワはアンドレ・ブルトン批判へと移っていくのだが、ここでは割愛する。
カイヨワのシュルレアリスム批判に対する筆者の立場については本ブログの「イヴ・タンギーとシュルレアリスムの視覚イメージ(3)」を参照のこと。
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