2014/03/06

松宮秀治『ミュージアムの思想』

松宮秀治『ミュージアムの思想』白水社、2003年.













 帯に曰く、

「ミュージアムとは何か ミュージアムとは、美術館、博物館にとどまらない広領域の概念であり、西欧近代のみが創り出しえた全世界の一元化をめざす思想である。本書は新しい視点からミュージアムをとらえ直す刺激的な論考」。

「今日ミュージアム的なタブーが適応されるものに、花、樹、湿地、家屋、都市、さらに人間がある。最も想像力に富んだひとでさえ、その行きつく先を測定しえないほどである ―― エルンスト・ユンガー(本文より)」。

序章 ミュージアムとは何か

「西欧のミュージアムとはこのように広領域の概念である。そしてその概念は今なおその概念を拡大させていこうとする潜勢力を秘めた動力学的なものである。その潜勢力は全世界を自己の裡に取り込み、世界を所有しようという一種暴力的な危険性を裡に秘めた概念である。いうなればそれは全世界を西欧の「世界システム」に組み込んでしまおうとする西欧イデオロギーである」(10

「ミュージアムとは西欧近代のみが創り出しえたもっとも西欧的な「思想」であるが、同時にもっとも西欧イデオロギーを感じさせない、きわめて巧妙な「制度」である」(11)。

「ミュージアムという思想が「攻撃性」と「暴力性」をもつものであるということは、ミュージアムを成立させている科学、技術、文明、歴史、文化、芸術という西欧近代の創出した価値そのものが、それぞれに西欧中心の価値体系として世界の一元的整序を最終目的としているということである。そしてミュージアムの基本となっている「コレクション」という行為に公的価値を賦与し、コレクションという行為を単なる「ものを蒐める」という私的領域に閉じ込めずに、ものを蒐めることによって世界を所有するという政治的行為に転換させてきたこと自体も、ミュージアムの思想が攻撃性と暴力性と不可分に結びついたものであることを意味する。ただしここでいう攻撃性、暴力性とは具体的な暴力行為を伴うものではなく、むしろ病原菌の作用のようなそれである」(13)。

「ミュージアムとはその機能から見れば、西欧の近代が新たに発見した価値観念、つまり「芸術」「文化」「歴史」「科学」といった観念によって、新しい「聖性」を創出し、その聖性のもとで新しい「タブー領域」を確定していくものであり、そのもっとも基本的な特徴は、この聖性の領域とタブー領域をたえず拡大し、巨大化させていくことである」(14)。

「西欧におけるコレクションの制度化の歴史とは秘匿されていたコレクションを開示することによって「蒐める」という行為を文化の枠組みのなかに取り入れていったプロセスである。それは正倉院のコレクションのように「集まったもの」を保持していく営みではなく、「蒐める」行為そのものを持続化させる営みである」(16

第一章 コレクションの制度化

「[……]実際は帝国主義がミュージアムと創り出したというより、ミュージアムの思想とそれを生み出した西欧のコレクションの制度化という思想がむしろ帝国主義を生み出したといった方がより精確な認識といえるのである」(26)。

 「西欧のコレクション史研究者たちは、ポミアンの『コレクション ―― 趣味と好奇心の歴史人類学』の強力な影響のもとで、西欧の十六、十七世紀のコレクション文化を「好奇心の文化」と規定し、それに「帝国」「支配」のタームを巧妙に結びつけようとしてきている。そうすることで彼らは自分たちが新しい「文化帝国主義」のイデオローグになっていることに気づいていないようである。
 彼らは、ヨーロッパ人の「好奇心の文化」の連続性を西欧世界の絶対的優越性から説明し、そしてそこからひとつの結論を見出そうとしているように思われる。この連続性を承認することは、彼らが無意識のうちに「文化帝国主義」に陥っていることを意味する。なぜなら、「キャビネット」、つまりクンストカンマーとヴンダーカンマーはきわめて特殊西欧的な制度であり、ミュージアムの思想もこれまたきわめて特殊西欧的な制度であり、その個別的で特殊な制度と思想を「宝物室」という普遍的なものと接続することで一般化し、普遍化する思考から抜け出ていないことをはっきり示しているからである」(30)。

 「わたしたちは、そろそろ「美術」中心のルネサンス観を改めるべきである。[……]
 わたしたちがルネサンス、さらには宮廷コレクションの等身大の像を得たいなら、今日的な「芸術」観念の逆投射はやめて、図書蒐集と学芸保護に目を注ぐべきである。そうしないと、なぜ人文主義者たちの古代文献の蒐集が宮廷やヴァチカンの図書蒐集と結びつき、さらには公共図書館の設立と結びつくのか、またミュージアムの公開性の原則という思想がどこから来ているのかを見定めることができなくなってしまう。美術作品と注文者(保護者)との関係は、私的領域に閉じこめられたものであったが、図書の蒐集は単なる私的領域を超えた広いネットワークの中でなされる、一種の「公共事業」という性格を当初からもっていた」(47)。

「ヨーロッパの宮廷コレクションは、君主制の理念が地域国家の首長、つまり貴族の中の第一人者であることに充足していたときは、「宝物室(庫)」的な性格をもち、蒐集物は臣下や他国からの献上品、戦利品といったコレクションの祖型を基礎に、図書、古代遺物といった時間軸にそった価値物の蒐集に中心が置かれていた。それがカール五世の帝国が新大陸をその領土に含めてくると、宮廷コレクションの中心には珍奇物、異国物といった世界の驚異の認識といった空間軸へとその蒐集が切りかえられ、その蒐集が「世界の支配(掌握)」と同義となる理論形成が行われるようになった」(78)。

 「ヨーロッパ以外の文化圏は、例えばイスラム教文化圏、仏教文化圏、儒教文化圏はそれぞれにコレクションのもつ危険性を認識していた。だからそれを墳墓、宝物庫、神社仏閣の神聖領域に閉じ込めるか、または中国のように「王は玉を蒐め、、臣は石を蒐む」というように蒐集の対象をきわめて限定した範囲に制限した。「文房四宝」とか「書画骨董」という概念もコレクションの範囲限定からでてきたものである。「玩物喪志」とはまさにコレクション否定そのものの思想である」(80

 「「蒐集」は歴史的にみても。意味論的にみても、神話世界に属するものである。蒐集の原初的形態が、副葬品、奉納品、贈与品、戦利品、聖遺物、君主の財宝というかたちをとってきたのは、それ自体が神話への奉仕と神話の管理を目指すものだからである。だが「蒐集」がさらに大きな威力を発揮するのは、古い既存の神話、古い神話体系に奉仕するときではなく、それ自体が新しい神話を創出してくるときである。[……]その意味で「蒐集」とは、単にものを集めるという行為ではない。それは「もの」に意味を与える行為である。いいかえれば新しい象徴体系の構築であり、新しい神話の創出へつらなる行為である」(84)。

第二章 コレクションと帝国理念

「コレクションとはその原初的な祖型に遡って考えてみても権力の象徴という役割を担わされたものであった。コレクションの制度化はそれをさらに一歩すすめ、より自覚的に象徴物に転化し、体系化することによって権力を権威化していくプロセスといえる。権力は自らの持続をはかるとき、直接的な物理的強制力を可能なかぎり隠蔽し、それを権威による民衆支配の装置として拡大化させようとする。いうなれば権力はその主観的欲求を集団的欲求に客観化し、合理化しようとする。支配というものが特定の人間集団において服従を見いだす営為であるかぎり、権力支配は直接的な武力による支配のみではその持続をはかれない。権力の正統性を保証するのは、権力でなく権威である。したがって権力はつねにその正統性を保証するために権力の権威化を同時にはかってゆかねばならない。権力の権威化は、神話、プロパガンダ、シンボルの体系化という手段を通じて行われる。古代文明に見られるように宗教的権威と世俗的権威(政治権威)の間に分裂の見られない神権政治体制は、権力と権威の統一を巨大モニュメント、特に巨大墳墓や巨大寺院で集中的に表現することができた。それに対し、世俗権威と宗教権力が分立した西欧の皇帝権力は、その空洞化の中で政治権力と政治的権威をも分裂させてしまった。いうなれば複合的分裂の中で皇帝権が再び権力と権威をとりもどすためには、他の文化圏には独自の政治手法をあみださなくてはならなかった。[……]
その独自の政治手法のひとつがコレクションの制度化と政治のスペクタクル化(政治の演劇化)である。いうなれば、政治を視覚化する手法である。人文主義的な古代遺物と古写本の蒐集が世界を項目別に分類、体系化する百科全書的な蒐集に劇的に変化し、小宇宙としてのクンストカンマーを形成してくるのは、中世の伝統的な宮廷祝祭が、壮麗な祝祭芸術にまで変貌していった時期、つまり十六世紀初頭におけるハープスブルク朝の世界帝国化とそれと軌を一にして生まれた帝国理念の出現の時期と重なりあっている」(91-92)。

 「ルネサンスの時代とは古代が復活、再生した時代といわれる。だがこのようないい方は不十分なだけでなく、混乱の原因となる。いかなる過去の時代も、過去の人物と同様、自ら復活し再生することはない。それはさせられるのである。[……]ルネサンスとは人文主義活動を通じて、古代を蘇らせることによって、宗教改革が結果的に招いてしまった地域主義にキリスト教的な普遍主義とは異なった原理を注入することによって、新しい「帝国」理念の可能性を示したものと再解釈できる。
 西欧の美術史のつくりあげたルネサンス・マニエリスム・バロックという様式史的な時代区分は、芸術作品の発展を政治史から切り離し、ヨーロッパ史に一貫する「帝国」理念の存在を隠蔽してしまうことになる。様式史とは「芸術」を新たな神話として自律化させようという十八世紀後半以後の市民社会のイデオロギーから生まれたものであるので、われわれはそのイデオロギーの根底を見据えて、様式史的な差異よりも近代以前の芸術がいかに権力に「奉仕」していたかということの一貫性を追わなくてはならない。そのあとに続くロココも新古典主義もロマン主義も「帝国理念」と無縁ではなく、それらはまさにこの「帝国理念」をめぐっての内部抗争の諸局面を表わすものである。
 のちにもうすこし深く「美術史」という学問に立ち入ることになるが、これは決して中立的な学問ではない。それはミュージアムという思想と近代の国民国家がそのイデオロギーを隠蔽し、「芸術」という西欧イデオロギーを中立化し、普遍化していくことに荷担している、侵略性や攻撃性を内在させた学問である。
 わたしたちは「芸術」という概念を普遍的価値とみる見方をできるだけ早く捨て去るべきである。そうしないとヨーロッパという地球上の一地域を普遍化し、それが相対的な一地域であることを忘れてしまう。「芸術」という概念はいまや制度疲労があらわになった概念なのである。現代の日本の「日本画」が世界的な次元ではいまだ日本的「手仕事」にとどまるものであるとするなら、ピカソやルノワールの絵画も西欧的な「手仕事」にすぎない。その手仕事を芸術の領域に聖別化していくのが、ミュージアムの機能である。
 西欧のミュージアム制度の中で最も突出した力を発揮したものが「美術館」機能である。この美術館という新しい神殿は、「芸術」信仰の中心地となって、美術史学という新しい神学を組織させ、美術史家、美術評論家という新しい司祭階級を生み出してきた。そしてこの司祭たちは、絶対主義王政期のクンストカンマーとヴンダーカンマーを混乱と無秩序と不合理の支配する世界として解体、崩壊させ、その中から「美術」のみを救出した。その結果、その時代にあっては手仕事の職人であった者が、「芸術家」としてその時代にあっても眩しいほどの輝きを放っていたという幻想を振りまいてしまった」(106-107)。

 「芸術と権力とは本質的に相容れないものである、芸術は本質的に反体制的である、というのは近代の芸術観がつくった神話であり、幻想である。したがってこの幻想を旧体制の絶対主義王政時代に再投入するのは、誤りである。そもそも彼らは現代の「芸術」という観念とは無縁の観念体系の中に生きていた。現代の芸術の観念を過去にもちこめばもちこむほど、芸術という観念は現実的な力を喪い、「芸術」という制度を加速度的に疲労させてしまう。芸術研究は古いパラダイムを捨て、新しいパラダイムを求めなければならない。
 新しいパラダイムは、まずヨーロッパの「芸術」観念を相対化し、つまりヨーロッパという一地域の思想として相対化することで、「西欧芸術」を美術史という学問の規範価値としないことをほぼなしとげた時点で出現してくるだろう。
[……]絶対主義王世期の、現代の観念でいうところの「芸術」は、権力との共存なくしては、原理的に存在しえなかった。それは権力の強制に服するというより、ギルド的制約とキリスト教的制約からの解放であった。宮廷の要請に応えることは、彼らにとって権力への「奉仕」ではなく、「共同事業」を意味した。したがって彼らに不本意や屈辱というものがあるとしたら、それはその共同事業への参画を許されないか、あるいはその仕事に対する代価が過少と思われるときであった」(108-109)。

第三章 ミュージアムの思想

 「本書はこれまでヨーロッパにおけるコレクションの制度化と近代ミュージアムの思想の成立過程を、ヨーロッパにおける「帝国理念」の展開のプロセスに対応させて論じてきた。このような論述の方法はややもすれば、かつて流行したヨーロッパ帝国主義批判の常套的な手法に寄りかかったイデオロギー暴露と誤解されかねない。本書のこれまでの論述でそれが意図ではないことはおわかりいただけると思う。わたしの真の意図はミュージアムを通じて「西欧」とは何か、「近代」とは何かを考えてみたいということである。なぜミュージアムであるかといえば、そこにわれわれの意識の盲点が集中しているように思われたからである。そしてもうひとつは、西欧のミュージアムの思想が普遍的価値として非西欧圏においても、無批判に西欧のそれと等価物のものであるとみなされている現状には批判的でありつづけたいと思っているからである。なぜなら西欧のミュージアムの思想を成立させてきたのは、「科学」「技術」「芸術」「歴史」「文化」という観念であるが、この観念に特別な価値を賦与していったのが「近代」というこれまた特別な価値を賦与された観念であったからである。「近代」が「ミュージアム」を自己のうちに取り込み制度化していったということは、「科学」「技術」と結びつく進歩主義と、「芸術」「歴史」「文化」と結びつく保守主義の分極化を阻止することにつながる。これはまたさらに一歩すすめて、「科学」や「芸術」にそれぞれ自律的価値を主張させることで、それぞれが中立的な価値であり、イデオロギーとは無縁なものであると思わせ、最終的に「近代」を脱イデオロギー化させる一種のイデオロギー隠蔽装置をつくりだしたということである。
 それ自体がイデオロギーでありながら、イデオロギーであることを隠蔽してしまう「ミュージアム」とはいったい何なのだろうか」(193-194)。

 「ポミアンのいうようにミュージアムを教会に代わる新しい祭式施設と考えるのは、きわめて妥当な考え方である。そこで執行される祭式とは、「国家が国家自身に捧げる恒常的な敬意」を表現するものでなければならない。なぜなら古い祭式にとって代わる新しい祭式とは「国家が同時に主体となり客体となるような祭式」であるからだ。国家が主体であり客体であることが同時に可能であるということは、「国家」価値以上の権威体系の構築を不可能にし、また不必要なものにしてしまうということである。いうなれば国家領域の中に宗教の活動範囲を許さず、宗教の活動の領域を個人の良心あるいは社会の価値規範の領域に閉じ込めることを意味する。いうなれば政教分離達成の記念碑がミュージアムということになる」(203

 「西欧の近代思想がキリスト教の手法を自己の裡に取り込んだということは、キリスト教が中世初期にゲルマン世界に浸透していくとき、「聖遺物」の信仰という手法を創り出したように、近代思想も近代の「聖遺物」を創り出したということである。ミュージアムとは近代の「聖遺物」の保管所である。[……]
[……]ミュージアムが近代の聖遺物の保管所であるとすると、そこに保管されている聖遺物とは、ユネスコのミュージアム規約がいっているように、「芸術的、歴史的、科学的、技術的な事物のコレクション」ということになるが、それは一種宗教にも似た「近代」という教義が独自の理論で生み出した「習合観念」の産物である」(204-206)。

 「近代の「聖遺物」の集積場、保管所であるミュージアムが、そのコレクションを「何よりもまず公衆のレクリエーションと啓蒙のために展示することを目的」とする施設と定義されるのは、ミュージアムの裡で「近代」と「反近代」、「進歩」と「保守」が相反撥しながらも奇妙な共存と融合をはたしている状況を独自のレトリックで表現しているものといえる」(208)。

 「現代の「美術館」における最大の機能のひとつは、収蔵され展示されている作品がすべて「本物」であるという神話を創り出したことである」(229)。

 「新しい伝統の創出とは、新しい象徴体系の創出であるが、フランス革命ほど徹底して、この象徴的枠組みの形成に熱意を示した時代や国民はほかになかったといえる、それはフランス革命が「芸術」を教化的な機能として社会化する政治手法に最も敏感であったことに原因がある。[……]フランス革命の政治手法は決して新しいものではなかったが、その政治的な意義が大きいのは次の点にある。それは絶対主義王政が「宮廷祝祭」と「クンストカンマー」「ヴンダーカンマー」によって、王権の神話的な権威を創出していったのに対して、フランス革命は「革命祭典」と「ミュージアム」によって、王権の神話的な権威を破壊し、新しい「国民の歴史」の神話を創出したということである。現在では「一国史」のナショナリズムのイデオロギー性は十分に自覚されているのであるが、フランス革命のミュージアムの思想と政策が、ナショナリズム思想だけでなく、帝国主義的な思想も同時に発展させていることにも注意がはらわれなくてはならない」(241

終章 ミュージアム思想の拡がり

 「「ミュージアム」の本質には、十分には説明しえないが、何か必ず死を連想させるものが潜んでいる」(253)。

 「ミュージアムが死のメタファーで語られ、死の連想を呼び起こすのは、おそらくそれが近代の新しい「死者礼拝」の場であることに原因があるのでないかということである。ミュージアムはすでに見てきたように近代の新しい「宗教」であり、新しい「神殿」である。それは死者たちによって生きているものたちを支配する装置であるといえる。「芸術」「歴史」「文化」の観念系につらなるすべてのミュージアムは、すでに死せるものたちを礼拝し、その礼拝の儀式を通じて生きているものたちすべての行動規範を創り出す、いうなれば歴史の管理装置である[……]
しかし、ミュージアムと墳墓の死者礼拝における類似性を指摘することそのものが重要なのではない。重要なのは、その死者礼拝と死者の一種の神格化が及ぼす影響力とその範囲を測定することである。それはもはやメタファーでは語りえない。なぜならメタファーで語ることのできる範囲は、その類似性だけにとどまらざるをえないが、古代の死者礼拝と近代のミュージアムの死者礼拝は、より具体的にその差異において語られることが重要だからである。
[……]近代のミュージアムの死者礼拝は、人間という範囲を超えて、「もの」にまで拡大され、その「もの」の範囲さえも測定しえない広がりを見せている。それがユンガーのいう「ミュージアム的衝動」というものであるが、この衝動は、一種の破壊力として、「もの」をその本来的な生から生かされた「仮死の生」の中に移し替えてしまうのである。このことは古代の死者礼拝の中にあった神話的な「死と再生」の連鎖を断ち切り、人為的な「死と再生」の新しい連鎖を創り出すことを意味する。
[……]あらゆるものを人為的に死に至らしめるか、あるいは仮死の状態に至らしめ、それを新たに再生させることこそがミュージアムの思想の最も本質的な部分がもつ「死」の思想である」(254-256)。

 「[……]パキスタンのイスラム原理主義者たちによるバーミアンの石仏破壊なども、西欧の新しい神のひとつである「芸術」という思想に対する否認を意味している。[……]
[……]たとえば、日本の首相や政府要人がアメリカ合衆国を訪問すれば、必ずアーリントンの無名戦士の墓地を表敬訪問し、献花するが、アメリカの大統領だけでなく諸国の国家元首が日本を訪問しても、靖国神社に参拝しないのはなぜか。それは無名戦士の墓地が思想的に完全に宗教から切り離され、ミュージアムの思想下に入っているのに対し、靖国神社が名目上は社団法人であるにもかかわらず、思想的に完全に「国家宗教」に属していることを全世界が熟知しているからである。ということは日本の政教分離が見せかけだけのものであって、いつまた天皇を神とする祭政一致を復活させるかわからないという疑念を与え続けているからである。[……]
 バーミヤンの石仏破壊と靖国参拝はまったく別問題であるように考えられるかもしれないが二つは「ミュージアム」という思想を通じてみれば、まったく同一次元の問題である」(261-262)。

「結論からいえば、西欧におけるミュージアムの思想のいう「保存」と「保護」とは、「破壊」を正当化するイデオロギー的主張のことである。破壊という言葉が穏当性を欠くなら、人為的再整序、強制的再移転といいかえてもよい」(266)。

「西欧におけるミュージアムの思想とは、「科学」と「技術」という観念系の価値によって自然を支配し、「歴史」「文化」「芸術」という観念系の価値においては精神を支配する、つまり西欧的な価値を強制する思想である。そしてこれらの諸観念の価値を育てたのは西欧近代の「市民」社会のイデオロギーであるが、このイデオロギーは政治的には「民主主義」と「自由主義」を、経済的には自由競争を原則とする「資本主義」の思想を分かちがたく結合しているのである。
 「ミュージアム」は静寂が支配し、教養人に魂の安らぎを与え、信仰心にも似た美的畏敬の念を与える芸術作品だけによって満たされている空間ではない。「ミュージアム」とはたとえそれがほんの一部にすぎない「美術館」であっても、その見せかけの静力学的背後にとてつもない衝動力を隠し持った動力学的な装置である。「欲望」の解放を原理とする西欧のミュージアムの思想を、いったん受け入れてしまえば、後発国は西欧以上の「欲望」の解放を推し進めなくてはならない。この「欲望」とは政治的用語に置き換えれば、自由主義、あるいは民主主義の根底を支える情念のことであり、経済学的にいえば資本主義経済を支える自由競争の情念である。ミュージアムの思想の文脈でいえば、伝統的な国家宗教の「聖域」を残しておかないという意志である。もし、どの後発国であってもこの思想の中途半端な受け入れ方を続けていれば、「ミュージアムの思想」の側からか、あるいは「伝統的な聖性」(国家宗教)側のいずれかから攻撃されることになるであろう。
 さらに、中途半端な制度だけの外形的模倣は「公開性」の原則の思想をねじ曲げ、「保護」を非公開とする秘匿にすり替え、公共圏の成立を妨げ、政治や経済という他の社会の基盤まで秘密主義の風潮を育ててしまうことになる。そこでは「公共」という概念は「公共のため」ではなく「おおやけ」というお上が恩寵を下賜するものの意味になる。したがってそこでは公共のミュージアムというものは、国民や人類の共有財産という本来の位置づけを失い、省庁間の権益の争いのなかで、一種の「私物化」されたものとなってしまう。さらにまた「権益」といううま味が減少すると、それはうち捨てておかれるか、「民間」事業とされる。もし西欧近代のミュージアム制度を非西欧圏が導入しようと図るなら、それが国家事業であること、しかも国家の「大事業」であることを学ばなくてはならないだろう。そうでないなら、ミュージアムの思想そのものを正面から否定し、それを可能にする論理の構築に向かうべきであろう」(267-268)。

「わたしは日本のミュージアムを否とし、西欧のそれを是とする考えはすこしもない。[……]西欧のミュージアム思想は西欧的な価値で全世界を一元化していこうとするきわめて身勝手で、危険な思想であるということを指摘し、同時に中途半端な西欧ミュージアム思想の模倣や移入は、本家本元のそれよりももっと始末におえないものであることを主張しておきたかったのである」(274)。


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