2013/04/11

ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」

多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波書店、2000年.








 複製技術による芸術の変化を論じ、ファシズムがそれを利用することに警鐘を鳴らす古典的論文。1933年にベンヤミンがパリに亡命した後に書かれ、1936年にフランス語訳が発表された(訳者はピエール・クロソフスキー)。


論文の目的

 第一節では論文の目的が述べられる。この論文の目的は史的唯物論の立場から、現在の芸術の発展傾向を予測的に分析することにある。そこからは芸術にまつわる伝統的概念である創造性や天才性、永遠の価値や神秘といったものは切り捨てられる。それらはコントロールされずに適用されるとファシズムに利用される危険があるからであり、そのコントロールが現状では難しいからである。本論で導入される諸概念は、ファシズムの役には立たないものである一方、芸術政策における革命的要請を定式化するのに役立つものとされる。


芸術作品の複製、アウラの凋落

 第二節では芸術作品の複製の歴史が述べられる。芸術作品は原則的には常に複製可能だった(模倣、模作)が、その技術的複製は比較的新しい。まず木版画が生まれ、彫刻銅板画と腐食銅板画がそれに続き、十九世紀初頭には石版画が登場した。石版画はそれまでに比べて大量の複製を可能にし、複製技術に新しい段階をもたらしたものの、数十年後には写真に追い越されてしまうことになる。写真は、芸術家としての責務から手を解放し、代わりに目がそれを引き受けることになった。そして十九世紀末には音の複製がはじまる。つまり1900年を画期として、複製技術はそれまでの芸術作品の総体を対象することになり、芸術と芸術家の在り方に根本的な変化を与えることになった。



 第三節では複製の性質と伝統の清算が語られる。複製には「いま、ここにあるという特性」が欠けている。この特性は芸術作品に一回限りの存在としての歴史(あるいはそれがそのものとして伝えられてきたという伝統)を付与し、その真正性の概念を形成する。真正性は手製の複製に関してはその権威を保持するが、技術による複製についてはそうはいかない。技術による複製は自立性を持っているからである。たとえば写真は、①レンズには映っても人間の目には映らない眺めをオリジナルから抽出することができる。②オリジナルの模造をオリジナル自体に関しては想像もできない場所へ運ぶことができる。
 このような真正性の概念、権威、伝統の重みをベンヤミンはアウラという概念に総括する。複製技術時代の芸術作品において滅びてゆくものは作品のアウラである。複製技術は複製されたものを伝統の領域から切り離す。複製技術は作品の一回限りの出現の代わりに①大量の出現をもたらす。②受け手はその個々の状況において複製作品を受容することでその複製作品にアクチュアリティーを付与する。伝統はこの二つの過程を通じて震撼させられる。この事態は人類の現在の危機と新生とに表裏をなす事態であり、大衆運動と密接に関連している。この点を代表するのが映画である。映画はその最も現状肯定的な形態においてすら、その破壊的、カタルシス的側面を示している。文化遺産における伝統の領域をそれはきれいに清算しているからである。

 第四節では知覚の歴史性における社会的条件の重要性、アウラとは何かについて語られる。たとえばウィーン学派の美術史家リーグルなどは古典古代の伝統に埋没してきたローマ後期の工芸の固有の知覚の特性を救い出したが、彼らはその形式的な特色を指摘するだけで満足してしまっており、知覚の変化の中に示されていた社会的変動を明示しようとはしなかった。では現在のアウラの凋落の社会的諸条件とは何か。
 アウラとは何か。アウラとは「時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんな近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うこと ―― これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない」。
 こうしたアウラの凋落の社会的条件は二つの事情(いずれも大衆の増加、大衆運動の強まりと関連がある)に基づいている。①現在の大衆はあらゆる事象の複製を手中にすること(「近づけること」)を通じて事象の一回性を克服しようとする傾向を持っている。②アウラを崩壊させるということは「世界における平等の感覚」を発達させた現代の知覚の特徴である。一回性と耐久性が絵画や彫刻において密接に絡み合っているのに対し、複製においては一時性と反復性が同様に絡まり合っている。現代の知覚は複製を手段として一回限りのものからも平等のものを奪い取る。

礼拝的価値と展示的価値、および遊戯

 第五節では芸術の根拠が、複製技術によって儀式から政治へと移行したことが語られる。芸術作品の真正性は伝統の中に埋め込まれていることに拠るが、この伝統自体もしばしば変化する。とはいえ伝統が変化してもアウラは存続する、その根源的な仕方は礼拝という表現を取る。最古の芸術作品は儀式に(最初は魔術的、次には宗教的なそれに)用いるために成立している。つまり芸術の真正性は儀式にその基礎を置く。ルネサンス以降の世俗的な美の礼拝も同様である。この礼拝的価値は、「最初の真に革命的な複製手段である写真の出現」(同時に社会主義の登場)に対して、芸術のための芸術という、一種の神学によって対抗しようとした。そこではあらゆる社会的機能と共に対象によるどのような規定さえも否認される(詩において最初にここに到達したのはマラルメである)。複製技術の登場(写真の焼付け技術はどれが真正かという問いを無化する)は世界史上で初めて芸術作品を儀式への寄生から解放することになり、芸術は政治を根拠とするようになる。

2:映画の複製可能性は直接にその生産の技術に基づいている(その生産費が高額であるため、大量の観衆を必要とする)。だがトーキーの出現は一時的な後退をもたらした。それが同じ言語圏内に限定されるからである。しかもこのことはファシズムによってナショナリズムが鼓舞された時と重なった。この関連は重要である。この同時性の根本には経済恐慌がある。だがトーキーは結局、大衆を改めて映画館に呼び込み、新しく諸国の電気産業を映画資本と提携させた。故にトーキーは表ではナショナリズムを促進したが、裏では映画生産をこれまで以上に国際的にした。

 第六節では、芸術史が礼拝的価値と展示的価値という二つの極の交替として捉え直される。芸術は魔術に用立てられる形象の制作からはじまった。そこでは存在することが重要であり、見られることは重要でない(これを見るのは精霊である)。この礼拝的価値は作品を隠れた状態に保つことを要請する。逆に芸術が礼拝的価値から解放されてゆけばゆくほど作品を展示する機会は増大する。この礼拝的価値と展示的価値の量的移行は質的変化に転換する。前者(第一の技術)はやたらと人間を投入する技術(一回性が重視され、犠牲死もそこに含まれる)だが後者(第二の技術)はそれを少なくする。後者の根源は、人間が初めて無意識の知恵を働かせて自然から距離をとりはじめたところにあり、言い換えれば、遊戯にある。自然と人間との共同の遊戯の練習、これが今日の芸術の決定的な社会機能である。このことはとりわけ映画について言える。映画は機構によって条件づけられた知覚、判断能力、反応能力を人が練習することに役立つ。そして機構に奴隷的に奉仕している現状を改革し、逆にそれを用いての解放の可能性を学ぶことを促す。

注3:この両極性に言及しているのはヘーゲルである。
注4:第二の技術の適応を促進することが革命の目標である。「革命とは、集団の神経が隅々まで働くこと、より正確にいえば、第二の技術を器官とする新しい集団、史上最初の集団の、神経を隅々まで働かせようと試みること、にほかならない」。

 第七節では写真による礼拝的価値の駆逐について述べられる。礼拝的価値の最後の避難所は人間の顔、肖像だった。だが人間が姿を消すと、展示的価値が礼拝的価値に打ち勝つ。この成り行きを示した点にアジェの写真の比類ない価値がある。ここで写真は歴史過程の証拠物件となりはじめており、そこに隠れた政治的意義がある。そこで写真は特定の意味で受け取られることを求めており、初めて説明文が不可欠のものとなる。やがて映画において説明文はより精密な、強制力を持ったものとなる。映画では個々の映像の捉え方は、先行する一連の映像全体によってあらかじめ定められている。

映画の諸特性

 第八節では映画の改良可能性について述べられる。映画は多くの映像や場面からモンタージュされるものであり、それ故に芸術作品のうちでも、より良く作り変える可能性に最も富んでいる。そしてこの可能性は永遠の価値なるものを徹底的に断念することと繋がっている。それは古代ギリシャにおいて可変性の少ない彫刻が芸術の頂点に立っていたのとは正反対である。

 第九節では絵画と写真の間で戦わされたその芸術的価値をめぐる論争について触れられている。複製技術によって、芸術は礼拝的基盤から引き離され、その自律性は失われたが、その機能変化は十九世紀の人々の目には入らなかった。写真の発明によって芸術の性格が総体的に変化したのではないかという、まず先に考えるべき問題はなおざりにされていた。

 第十節では映画の特殊性について述べられる。映画という芸術作品はモンタージュに依拠してはじめて成立する。モンタージュされるのは個々の事象の複製だが、その事象はそれ自体では芸術作品ではなく、(写真と異なり)撮影されて作品となるわけでもない。ここでいう個々の事象とは映画俳優独自の芸術的営為ということになる。だがこれらの営為は複製に依拠する営為という点で舞台俳優と異なっている。それらは一種の専門委員会(プロデューサー、監督、カメラマン、録音技師、照明技師など)の前で行われる。スポーツにたとえるなら、それらのうちの最高記録を、彼らが認定する。こうしたいわば実験的営為は、ベルトコンベアーによる労働過程の規格化(機械による実験の形の試験)とパラレルの関係にあり、映画はこの実験的営為を展示可能なものとする。映画俳優は機械装置の前でも人間性を保持するが、これは労働者が機械的機構を前にして自己疎外に陥っていることに対して大きな効用を持つ。だからこそ彼らは夜になると映画館を満たすのである。映画俳優は機械的機構に対抗して人間性を主張し、自身の人間性の勝利のために機構を用立てていることを通じ、労働者の雪辱をはらすのである。

 第十一節では一方で映画においては人間(俳優)からアウラが剥奪されていることが指摘される。映画制作のメカニズムは基本的かつ必然的に俳優の演技を一連のモンタージュ可能なエピソードの数々に分解しなくてはならない。この点において映画はこれまでの芸術がそうであった「美しい仮象」の王国から既に脱け出してしまっている。

10:全ての芸術の根本現象としての模倣(ミメーシス)の中には仮象と遊戯という両極性がある。「第一の技術:魔術:仮象/第二の技術:遊戯」=「礼拝的価値/展示的価値」。仮象の衰微、アウラの凋落は巨大な遊戯空間の獲得を可能にし、その最も広いものが映画である。


第十二節では人間の自己疎外の生産的利用について述べられる。映像は大衆の前に移される。俳優は観客でなくカメラの向こう側に想定される大衆の前に立ち、大衆によるコントロールを受ける。大衆は俳優には見えず、まだ存在していない。この不可視性によって大衆のコントロールの権威は高くなる。とはいえ映画が資本主義的搾取の束縛から解放されない限り、このコントロールの政治的価値が有効に生かされるには至らない。このコントロールという革命的チャンスは映画資本によって反革命的なチャンスに転化させられているのが現状である。スター崇拝、観客崇拝による大衆の心性の腐敗を、ファシズムが階級意識に代えて植えつけようとしている。

11:放送および映画は、俳優の機能を変化させるのみならず、たとえば政治家の機能をも変化させる。ここから結果するのは新しい選択法、機械装置を前にしての選択であって、この選択からはチャンピオンが、スターが、そして独裁者が、勝利者として現れてくる。
  
第十三節では作り手と受け手との交換可能性について述べられる。映画の技術についてスポーツの技術についてとまったく同様にいえることは、展示される営為に、万人が半ば専門家として立ち会えることである。今日では万人が映画に登場しようという要求を持っている。かつて文学がそうなっていったように、作家と公衆の間の区別は、基本的な差異ではなくなりつつある。その区別は機能的なもの、ケース・バイ・ケースで反転しうるものとなっていて、読み手はいつでも書き手に転ずることができる。だがこの交換可能性は、いまだ生かされていない。映画資本は特殊階級へと従属しており、映画資本の接収がプロレタリアートの緊急の必要となっている。

第十四節では、映画と絵画との関係が、撮影技師と執刀医の関係を比喩として語られる。画家は仕事をするとき対象との自然な距離に注意を払う。これに反して撮影技師は事象の織り成す構造の奥深くまで分け入っていく。両者が取り出してくる映像はいちじるしく異なっている。画家による映像が総体的だとすれば、撮影技師による映像はばらばらであって、その諸部分は新しい法則に従って寄せ集められ、一つの構成体となる。ここに映画による現実描写の比類ない重要性がある。というのも、機構から解放された現実を見る視点は、逆に機構を利用した映画による徹底的浸透によって得られるからである。

第十五節では芸術と大衆の関係について述べられる。芸術作品の技術的な複製可能性は、芸術への大衆の関係を変える。たとえばピカソの絵に対する関係は後進的なのに、チャップリンの映画に相対するとなると、その関係は実に進歩的なものに急変する。この進歩的な関わりの徴表となるのは、眺める楽しみ、体験する楽しみが、専門家として下す判断と直接に、親密に結びついていることである。絵画は集団的な受容には向かず現在その対象となるのは映画である。映画館では、個人の反応、その総和が公衆のまとまった反応を形成するのだが、その反応が最初からじかに即座に集まる。そして反応は表れると同時に相互のコントロールを受ける。絵画では大衆がそれを受容しつつ自己を組織すると同時にコントロールすることはできない。

無意識の視覚

第十六節では無意識の視覚について語られる。映画の社会的諸機能の中で最も重要な機能は、人間と機械装置との間の釣り合いを生み出すことである。この課題を映画は、人間が撮影用の機械装置に向けて自分を描出するという仕方だけでなく、その装置の助けを借りて人間が自分に向けて環境世界を描出するという仕方でも徹底的に解決していく。カメラに語りかける自然は肉眼に語りかける自然とは違う。そこには無意識に浸透された空間が出現する。人間はカメラによって始めて、無意識の視覚を体験する。無意識の視覚は夢の世界の描出とパラレルなものであり、そこからミッキー・マウスのような集団的な夢の形象が生じる。またディズニーの映画やアメリカのグロテスク映画は大衆の無意識の異常心理を予防的に爆発させて治癒するという予防接種的側面を持つ。サーカスがその先行者であり、今はチャップリンがその位置を占めている。

14:これもファシズムによる横領の危険性がある。

芸術作品における触覚的性質

第十七節では芸術作品における触角的な質の獲得について述べられる。芸術の最も重要な課題の一つは新しい需要を作り出すことだった。近年のダダイズムが生み出そうと試みていたものは、今日公衆が映画に求めている効果だった。ダダイズムは彼らの作品から容赦なくアウラを消滅させ、創作の手段を用いながらも、作品に複製の烙印を押している。ここでは気散じが、社会的な態度の一変種として登場してきている。ダダイズムにおいて芸術作品は、人の目を魅惑する外見や、ひとの耳を納得させる響きから抜け出して、一発の弾丸に転化した。それは人を撃ち、こうして作品はいわば触覚的な質を獲得した。映画にもまた気散じ的な側面があり、それはまず第一に触覚的な要素である。それは場面の転換、ショットの転換に基づいている。映画はダダイズムがいわば道徳的な範囲になお包み込んでいた生理的ショック作用を、その包みから解放した。

16:映画において画面を人が目にしたとたんに画面はすでに変わっている。固定されることはありえない。これを眺める人の連想の流れは、たちまち画面の変化によって中断される。ここに映画のショック作用がある。そしてこの作用は、現代人の知覚器官の深刻な変化に対応している。

くつろぎ

第十八節では芸術作品の量による質の変化、くつろぎという受容について述べられる。大衆が母体となり、芸術作品に対する態度の一切は新しく生まれ変わっている。量が質に転化している。関与する大衆の数が極めて増加したことが、関与の在り方を変化させてしまった。大衆は作品にくつろぎを求めている。くつろいだ大衆は芸術作品を自分の中へ沈潜させる。大衆は海の波のように作品をしぶきで取り囲み、自分の中に包み込む。この場合、建築物を例に取るのがわかりやすい。古来建築の受容は、くつろいだ大衆によってなされるものの典型だった。建築は二重の仕方で、使用することと鑑賞することによって受容される。あるいは触覚的ならびに視覚的に。触覚的な受容は注目という方途よりも、むしろ慣れという方途を取る。慣れは、知覚に課された新しい課題がどの程度まで解決可能になったかの目安となる。芸術が諸課題のうちのもっとも困難で重要なものに立ち向かうのは、芸術が大衆を動員しうるところにおいてであり、その場は現在、映画である。映画はそのショック作用をもって、くつろいだ形態の受容に対応している。

政治の耽美主義と芸術の政治化

最後の第十九節ではファシズムによる政治の美学化について述べられる。ファシズムは所有関係には手を触れずに大衆を組織しようとしている。大衆に表現の機会を与えることでそれはなされる。それは政治生活の耽美主義であり、その頂点に戦争が来る。戦争は所有関係を保持しながら、最大規模の大衆運動に一つの目的を与えることができ、また現在の技術手段を総動員できる。増大する技術の不自然な利用が戦争であり、帝国主義戦争とは技術の叛乱である。「芸術ヨ生マレヨ、世界ハ滅ブトモ」。ファシズムは、技術によって変えられた知覚を戦争によって芸術的に満足させる。ここには芸術のための芸術の完成がある。人類の自己疎外は、自身の絶滅を美的な享楽として体験できるほどになっている。このようなファシズムによる政治の耽美主義に対して、コミュニズムは芸術の政治化をもって答えるだろう。これがこの論文の結論である。

17:複製の普及は大衆を複製することにとりわけ好都合である。パレード、大衆集会、スポーツ大会、戦争はことごとく映画撮影される。一般に大衆の動きは肉眼よりもより明瞭に機械装置に映し出される。戦争は機械装置に好適な行動形態である。



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