ジョン・バージャー著、伊藤俊治訳『イメージ 視覚とメディア』ちくま学芸文庫、2013年(PARCO出版、1985年).
古典的著作であるが故にここで示されているテーゼの大枠はもはや常識といえるものかもしれない(この著作はニュー・アート・ヒストリーやヴィジュアル・カルチャーの源流に位置している)。だが個々の部分や考察は未だ大きな効力を持っているように思われる。イメージのみで構成された章を挿入する試みも興味深い。伊藤俊治による付論「見ることのトポロジー」を収録。
おそらく最も重要なのはある種の原理論として提示されている第一章である。要点を述べた部分を引用してみる。()内はページ番号。
第一章 イメージの変容
1. 「見ること」の位相
「見ることは言葉よりも先にくる。子どもはしゃべれるようになる前に見、そして認識する」(12)。
「世界における我々の位置を決めるのは、見ることなのである。つまり我々はこの世界を言葉で説明しているけれど、言葉は我々がその世界を見ていて、その世界によって取り囲まれている事実をどうすることもできない」(12)。
「我々のものの見方は、我々が何を知っていて、何を信じているかに深く影響される」(14)。
「見ることは選択である」(14)。
「見ることができることを意識するとまもなく、こんどは我々自身が見られていることに気づくだろう。我々の眼と他人の眼の存在は、我々自身がこの視覚世界の一部であるという事実を気づかせる」(14)。
「視覚における相互性は、対話における相互性よりももっと根本的なことである」(15)。
「この本のなかで我々はイメージを人工的なものとして使っている。
イメージとはつくり直された、あるいは再生産された視覚だ。それは最初にあらわれ、受けとめられた場所と時間から、数秒または数世紀も引き離された外観である。すべてのイメージはものの見方を具体化する。写真でさえもそうである」(15)。
「すべてのイメージがものの見方を具体化しているにしろ、そのイメージについての判断や知覚は我々自身のものの見方に依存しているのだということを忘れてはならないだろう」(15)
「イメージは最初、何か不在のものを呼び出そうとする目的からつくられた。そしてしだいにイメージが、それがあらわすものを永続させうることが明らかになり、いつのまにかある物や人がどのように見えたかを、またその対象が他の人の眼にどのように映っていたのかを示すようになった。その後においても、イメージ製作者の特定の光景は記録の一部として認識され、イメージはXがどのようにYを見たかの代用となった。これは歴史に対する意識の増大をともなった、個人性のめざめの結果でもある。このような発展の正確な日付をつきとめようとするのは軽はずみなことだが、確かなことはこうした自覚がルネッサンスの初期にヨーロッパで芽ばえたということだろう」(17)
「しかしイメージが芸術作品として提示された時、人はその見方を芸術について教わった様々な先入観によって影響されるおそれがある」(17)。
「歴史は常に現在と過去の関係からなるのだ」(18)
「最終的には特権的な少数者が、支配階級の役割を正当化する歴史をつくりあげるために、過去の芸術は神秘化される。そしてもはや現代においては、そのような正当化が意味をなさなくなろうとしているがゆえに、彼らはやっきになって神秘化に励むのである」(19)
2. 言説の神秘化
(フランス・ハルスについての権威ある研究書を俎上にあげて)
「絵の構成上の統一性は、基本的にそのイメージの持つ力に拠っている。ゆえに絵の構成を考えるのはもっともなことだ。しかし、ここではまるで構成そのものがまるで絵の感情そのものであるかのように語られている。「全体のハーモニー」「鮮やかな対象」などの言葉や、「広がりと強さの極み」などという用語にいたっては、生きた経験に裏打ちされたイメージによって触発された感情を、無味乾燥とした芸術鑑賞へとすりかえてしまうものだ」(21-22)
「神秘化は使われている言葉とはあまり関係ない。神秘化とは、そうしなければ明らかになってしまうものをぼかす作業である」(24)
3. 複製環境の意味
(遠近法について)
「視覚的世界は、宇宙が神のためにかたちづくられたと信じられていた時と同じように、見る者のために配置され、かたちづくられた。
遠近法の慣習によれば、視覚的な相互性など存在しない。神は他人との関係において自分を位置づける必要はない。神は位置そのものなのである。遠近法の根本的な矛盾とは神とは異なる、ある時間に一つの場所にしか存在できない一人の見る者に話しかけるためにすべての現実のイメージを組みたててしまったということだろう。
写真の発明によって、この矛盾は少しずつ明らかになってきた」(26)。
「カメラはものの外観の一瞬を写しとめ、イメージの無時間性という考えを打ち砕いた。言葉を変えていえば、カメラは、過ぎ去る時間の概念が視覚的経験(絵画以外の)と不可分であることを示したのである。あなたが見たものは、あなたの時間や空間上の位置に関係する。すべてのものが人間の眼の一点に集中していると想像するのはもう不可能なのである」(27-28)。
「カメラの発明は人のものの見方を根本から変えた。目に見えるということは別の意味を持つようになり、このことはすぐに絵画に反映された。
印象派にとって目に見えるものは、もはや人間に見られるためにあらわれない。それどころか目に見えるものは絶えまのない変化のなかで流動するようになった。また立体派にとっては、目に見えるものは、一つの眼が向きあっているものではなく、描写される対象のまわりに存在する面や点を集めた可視的視野の全体性であった。
カメラの発明は、カメラの発明以前に描かれた絵画に対する人の見方をも変えた」(28-30)
「いずれにしろ、今その原画が持っている独自性とは、それが“複製の原画”であることのなかにある。人が独自性を感じるのは、もはやその絵のイメージが見せるものではなくなっている。その絵の最初の意味はその絵のイメージが示すもののなかにではなく、その絵のあり様のなかにある」(32)。
(上記の「あり様」とは)
「それは希少価値であり、この価値は市場での価格によって確認され、評価される。しかしこれらはやはり“芸術作品”であり、商売より芸術のほうが偉大であるとされているから、その市場価格は精神的価値の反映だとみなされる。けれども情報や商品とは異なり、物の精神的価値は魔法や宗教でしか説明できないだろう。そして現代社会ではそのどちらもが生きた力を持ちえないため、“芸術作品”は完全に見せかけの礼拝性に包み込まれている。“芸術作品”はあたかもそれらが神聖な遺跡のように語られ、支持されている。遺跡とはつまり、まず第一にそれらがずっと生きのびてきたことの証明なのである。“芸術作品”の過去は、それらが生きのびてきたことの証明なのである。“芸術作品”の過去は、それらが生きのびてきたことの偉大さを証明するために研究され、その系図が保証された時、それは芸術だと宣言される」(32-33)。
4. 絵画の新しい価値
「国立美術館(ナショナル・ギャラリー)の来訪者は「岩窟の聖母」の前に立ち、この絵について彼が聞いたり読んだりしたすべてのことを総動員してこんなふうに感じるかもしれない「私はその原画の前にいる。その原画を見ている。このレオナルドの絵は世界に類を見ないものだ。国立美術館は本物を持っている。もしこの絵を注意深く見たなら、きっと本物の力を感じるはずだ、レオナルドの「岩窟の聖母」、これは権威あるものであり、だから素晴らしいはずだ。」
このような感情を素人のものだからとして片づけてしまうのは間違っている。こうした感情は実は国立美術館のカタログを書いた美術専門家の洗練された文化とぴったり一致するのだ」(33-34)
「絵画の複製可能な時代では、絵の意味はもはや絵をとともにない。それらの意味は移動可能となった。つまり絵の意味は情報の一種となり、すべての情報と同様に、利用されるか無視されるかのどちらかであり、情報そのものは特別な威厳を持たない」(37)。
「複製は絵の細部を全体から取りだす。細部はこれによって変形され、寓意的な形態が少女の肖像画となる」(42)。
「言葉がどのようにイメージを変えてしまうかを正確に規定するのは難しいが、それはまぎれもなくイメージを変えてしまう。ここではイメージは文章を説明してしまっているのだ。(・・・・・・)言葉は絵を引用することによって自らの権威を確信するのである」(45)。
「イメージの意味は、その真横に、あるいはその直後にあるものによって大きく変わってしまう。保持される権威とは、それがあらわれるすべての文脈に関わっているのだ」(45-47)。
5. 解き放たれたイメージ
「我々は芸術作品の原画が今や無用だとも言っていない。
情報は絶対にそのような状態にはないという意味で、芸術作品の原画は無言で静止している。こうした点では壁にかけられた複製でさえ、この原画の沈黙と静寂とは比較にならないだろう。なぜならそれらの沈黙と静寂は実際の画材や絵具に浸透していて、見る者は画家の直接的な身ぶりの痕跡をたどることができるからだ。これは絵が描かれた時間と、人がその絵を見ている時間との距離をせばめる直接的な効果を持つ。この特別な意味において、すべての原画は現在的なものである。そしてそれゆえその絵の存在も現在的なものである」(48-49)。
「大切なのは無垢と知ることの問題ではなく、自然と文化の問題でもなく、芸術を経験のすべての側面へと関連づけようとする総合的なアプローチと、没落しつつある支配階級(労働者階級の前での没落ではなく、企業と国家の新しい力の前での没落)が抱えるノスタルジィの販売人である少数の特殊化された専門家による秘儀的なアプローチの問題なのである」(51)。
「過去の芸術は、かつて存在していたようにはもはや存在していない。その威厳は失われてしまった。そのかわりにイメージの言語が存在する。今、問題となっているのは、これらの言語を誰が、何のために使うのかということである(・・・・・・)過去から切り離された人や階級は、自分を歴史のなかに位置づけることができた人や階級よりもはるかに、人や階級として選び行動することの自由を制限されている。これが、なぜ過去の芸術のすべてが今や政治的な問題となってしまったかの唯一の理由である」。
*著者はこの章の内容の多くがヴァルター・ベンヤミンの「複製芸術時代の芸術」から取られていることを付言している。
他の章については簡単に述べるに留めておきたい。文章による第三、五、七章は中心となるテーゼがはっきりしているので、必ずしも難解ではない。
第二章「社会空間になったイメージ」、第四章「見られる女たち 取り囲む女たち」、第六章「「見ること」のなかの「所有すること」」はイメージのみで構成されている。いずれも他の章を補完する意味合いも込められている。
第三章「「見ること」と「見られること」」では女性の裸体のイメージの問題について論じられる。現在のジェンダー構造においては、女性のイメージはどのように見られるかということによって規定されている。女性は常に自分自身のイメージにつきまとわれる。「男は行動し、女は見られる。男は女を見る。女は見られている自分自身を見る」(69)。ここからヌードと裸との違いも派生する。「ヌードとは裸の状態でないことが宿命づけられている。ヌードは服装の一種なのだ」(80)。一方「裸とは状態というより過程である」(89)。女性たちは、男性が彼女たちに行うことを自分自身に行っている。彼女たちは、男と同じように自分たちの女らしさを吟味する。
第五章「所有するタブロー」では、絵画を所有するということが描かれたものを所有することにつながっており、この事実は油絵という表現形式と密接に関わっていることが論じられる。
第七章「広告の宇宙」では、広告のイメージが常に未来について語っているというテーゼを中心に、広告のイメージについて論じられている。
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