2013/02/06

アーチの増殖 Multiplication of the Arcs

*初出(一部改稿):『水声通信』二三号(特集シュルレアリスム美術をどう語るか)、水声社、二〇〇八年三/四月、pp.89-97.

 美術史を記述するという行為は、視覚イメージを言語によって交換することを意味する。だが当然、両者は等価でない。視覚イメージを言語によって完全に交換しきることはできない。イメージの側には常に何らかの余剰が残存する。
二〇世紀美術史の記述が厄介なのは、そこではしばしば、この言語と交換不可能な余剰が、交換可能な要素を上回っているからである。だから大抵の場合、それらを記述する言葉は、逆に必要以上に過剰となり、時に耐え難いほどである。
この余剰を処理する一つの方法は、これを純粋な形や色、支持体といった要素に還元して記述することである。そこではイメージと、物質的実在としての造形的要素とを限りなく一致させることが目指されることになる。
だが、シュルレアリスムの視覚イメージをこの方法によって記述することはできない。シュルレアリスムの視覚イメージは物質的実在としてのそれ自身には向かわず、むしろその逆を志向する。つまり、言語にも物質的実在にも還元しきれないイメージの余剰それ自体に向かうからである。ここではそれをイメージの領域と呼び、その顕在化と極限化を記述する。


ジョルジョ・デ・キリコは、《秋の午後の謎》(一九〇九)[図1]の由来を次のように記す。ある澄んだ秋の日の午後、フィレンツェのサンタ・クローチェ広場に腰かけていた。長い腸の病の回復期にあり、感覚は病的な状態にあった。生ぬるい秋の日差しが、広場のダンテ像と教会のファサードを照らしていた。



[図1]ジョルジョ・デ・キリコ《秋の午後の謎》(1909)


「そのとき私は、全てを初めて見ているのだという奇妙な印象を持った。そして作品の構成が心に浮かんだ。私はその絵を眺めるたび、この瞬間を思い出す。とはいえ、この瞬間は私にとって一つの謎だ、というのもそれを説明できないからだ。そこから生じた作品も私はやはり謎と呼びたいと思う」[i]

この経験が、後に形而上絵画と呼ばれる一連のイメージの発端となった。それは初めから謎として、説明不可能な一つのイメージとして訪れている。
同時に、デ・キリコにとってこの経験はニーチェの著作の持つ神秘的な雰囲気[Stimmung]の追体験だった。形而上絵画とはまず、この感覚を視覚的に再現する試みである[ii]。このことのより理論的な説明は、「我ら形而上派・・・」(一九一九)でなされている。デ・キリコはそこで、ショーペンハウアーとニーチェこそが「生の無意味[non-senso]が持つ深遠な価値」を最初に示した人々であり、この無意味をはじめて絵画に応用したのが自分であると主張する[iii]
 この主張は、形而上学を徹底的に弾劾したニーチェに由来するイメージ群が「形而上絵画」と呼ばれるという奇妙な事態を、ある程度説明してくれる。たとえば『人間的、あまりに人間的』(一八七八)のニーチェにとって、形而上学的世界が「ありうるかもしれぬ」ことは疑えない。だが、そうした世界は非人間的なものであり、人間にとって何の意味もなさない。そうした世界を何か意味深いものとして偽装するのが、これまでの形而上学や宗教の欺瞞である[iv]
 形而上学的世界が非人間的なものであるという考え方は、ニーチェに影響を与え、デ・キリコがしばしば引用するショーペンハウアーにも見出される。カントにならい、ショーペンハウアーも世界を物自体とその現象に区分する。現象の世界は人間によって認識され、自然科学によって説明されるが、その絶対的な基礎は決して認識されえず、説明されえない。この説明できないものこそ形而上学の領分である[v]。それはキリスト教では神の領分であり、カントでは未知のXであり、ショーペンハウアーでは意志である。だがニーチェにとってそれは無意味である。「はじめに無意味ありき」[vi]


[図2]ジョルジョ・デ・キリコ《形而上学的構成》(1914)


 つまり、形而上絵画とは形而上的な何かを描くものではない。そうではなく、形而上絵画は形而上的な領域を指し示すものである[図2]。ここでの形而上学とは、説明不可能な何かを説明してしまうものではなく、説明不可能な何かを指し示す方法を意味する。だが同時に、世界の根拠であるはずの形而上的領域は、説明不可能な、非人間的なものであるゆえに無意味である。そして、その根拠が無意味であるなら、描き出された世界もまた無意味となり、謎となる。
謎とは何か。決定された答えの存在を前提とするなら、それはシニフィエが明示されていない記号の状態とでもいえる。だが、形而上絵画においては、究極的なシニフィエ(たとえば神)が位置するはずの形而上的領域には無意味がある。あるいは何もない。そこには究極的な答えが存在しない。だから形而上絵画における謎とは、シニフィエが存在するはずだが、未だ決定されていないような記号の状態である。そこでは謎の答えよりも、むしろ謎という状態そのものが焦点化されることになる。
そして、このような意味における謎は、言語とも物質的実在とも交換されえないイメージの余剰として表れる。何故なら、謎は言語(=答え)と完全に交換されてしまったとき、謎であることをやめる。つまり、謎は原理的に言語との交換不可能性に基づいている。同時に、謎はそれ自身とは異なる別の何かとの関係において、つまり記号としてのみ謎でありうる。だから謎は謎である限り、物質的実在としてのそれ自身とは決して一致しない。形而上絵画の啓示はイメージとして訪れ、デ・キリコはそれを謎と呼んだ。こうしてデ・キリコにおいて、イメージの領域が顕在化する。
もちろん、世界が無意味であると告げられたとしても、ニーチェにならえば、それは一つの解釈が没落したに過ぎない。世界は無意味だが、だからこそ同時に無限の解釈の可能性をはらんでいる。無意味と多義性は表裏一体である。形而上絵画が不安と同時に予感の感覚を与えるのは、そこに無意味と同時に解釈の可能性が開示されているからである。記号は何かを指示するのだが、その何かは未だ決定されていない。デ・キリコのいう「記号の孤独solitudine dei segni」をこのように理解できる[vii]


[図3]ジョルジョ・デ・キリコ《通りの神秘と憂愁》(1914)


この記号の孤独の状態を象徴的に示すモチーフが、形而上絵画に繰り返し登場するアーチである[図3]。デ・キリコによるオットー・ヴァイニンガーの引用によれば、アーチは円のよう閉じられていない故に「未完成なもの」があり、「完成の必要と可能性」があり、「予感」がある[viii]。デ・キリコにおける記号は、決定された意味を持たないために期待と予感の感覚を刺激する。
またアーチは向こう側とこちら側の境界であり、向こう側にあるはずの何かを想起させる。だがデ・キリコのアーチの向こう側には、しばしば暗闇がある。そこにあるのはやはり無意味であり、虚無であるはずだが、むしろそれがアーチをアーチたらしめる。有と無の境界としてアーチは存在する。そして、アーチが幾重にも連なることで、無意味と多義性が等しく増大されていく。
だが、アーチの連続は突如打ち切られる。一九一九年のある朝、ボルゲーゼ美術館でティツィアーノに見入っていたとき、デ・キリコは突然、「偉大な絵画とは何か」の啓示を得た。その時、自分がそれまで「描かれたイメージ」しか見ていなかったことに気づいたのだとデ・キリコは語る[ix]。そして、無意味に一つの決定的な意味が挿し入れられる。それは絵画という意味であり、古典絵画という歴史であり、マチエールという技術である。以後、デ・キリコは描かれたイメージではなく、描かれたマチエールの追求に生涯を捧げる。


 イヴ・タンギーは、デ・キリコ作品との出会いを次のように語る。

「その頃のある日、私はボエシー通りを下るバスのデッキに立っていました。ポール・ギヨーム画廊のウィンドウの二つの絵が私の目を捕えました。私はバスを降りて、見とれてしまったのです。それらはキリコのもので初めて見るものでした」[x]

このとき飾られていた内の一枚は《子どもの頭脳》(一九一四)で、当時、アンドレ・ブルトンが所有していた。奇妙なことに、ブルトンもまたタンギーと同じ経緯を辿って、この絵を発見している。この経験をきっかけに、タンギーは絵を描くことをはじめた。
シュルレアリストたちが語るデ・キリコ作品との出会いは、その「描かれたイメージ」としての力をよく示している。ブルトンもタンギーも、バスから偶然それを眼にしただけで引き寄せられた。エルンストは『造形価値』誌に掲載されていた複製図版に既視感のような感覚をおぼえ、マグリットは《愛の歌》(一九一四)の写真を見て涙した[xi]。だからこそ、描かれたイメージよりも絵画のマチエールを重視するようになったデ・キリコは、シュルレアリストたちに否定されるしかない。そこではイメージの余剰がマチエールに置き換えられている。
あるいは、デ・キリコとシュルレアリスムの相違を、無意味への態度決定から捉えることもできる。形而上絵画は世界の無意味を描いてしまった。では、この無意味にどう対峙すべきなのか。デ・キリコ自身は、無意味に絵画という決定的な意味を挿し入れることを選択した。これに対して、ダダは無意味を一つの攻撃手段として利用する。新即物主義は無意味の前で立ち尽くす。シュルレアリスムは無意味に絶えず別の意味を挿し入れることで謎を保持する。
無意味に挿し入れられる意味は、究極的には恣意的であらざるをえない。危険なのは、そこに何らかの意味が固定されることで無意味が覆い隠され、恣意的なはずの一つの意味が絶対化されてしまうことである。そこに国家や民族やある種のイデオロギーが固定されたとき、何が起こるだろうか。だから、無意味には遅かれ早かれ何らかの意味が挿し入れられてしまうとしても、それを絶対化してはならない。無意味に絶えず別の意味が挿し入れられることによって、常に別の意味の可能性が保持される。そのようにして謎という状態が保持されなければならない(謎とは意味作用が作動し続ける状態である)。
こうして、デ・キリコにとって天才の特権だったはずの啓示は、シュルレアリスムにおいては、デペイズマン(「ふさわしからざる平面上での互いに隔たった二つの実在の偶然の出会い」)やオートマティスム(「理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり」)といったいかにもあやうい定式(後者は定式を否定する定式である)に方法化される。啓示は方法として共有されることで(デ・キリコにとっては無意味の啓示も、またそこに意味を挿し入れることも独り天才にのみ許されている)、その絶対性をあらかじめ相対化されている。だが同時に、それでもあえてこうした定式に拠ることで、そこから生じたものを説明不可能な何かとしてみなす態度が可能となる。これらの定式によって、訪れたものを謎として迎えることができる。
そして、謎は記号としてのみ謎でありえる。だからこそ、シュルレアリスムの視覚イメージは、物質的実在としてのそれ自身へは向かわない。シュルレアリスムの実践は、現実を、物質的実在としてのそれ自身とは別の何かを意味する記号へと変換することにある[xii]。また、こうした実践はしばしば解釈という形を取ることになる。対象は、解釈として与えられた言語との関係において、容易に記号となりうるからである。このため、シュルレアリスムの視覚イメージは、常に言語との特権的関係を保っている。
しかし、勿論、そこでは謎を言語と完全に交換しきることが目指されているわけではない。そうではなく、何らかの決定的な意味によって謎が解消されてしまうことを避けるために、あえてそこに解釈が挿し入れられなければならない。またそうすることによって、さらに別の解釈の可能性がそこに生じさせられなければならない。対象とそれを取り巻く複数の解釈、その間に生じる決定不可能状態において謎が作動し、持続する。言語との交換、つまり解釈によって、逆説的に言語と交換不可能なイメージの領域が保持される。


 だが、特異な例が存在する。イヴ・タンギーが描く不定形の存在たちの世界がそれである。タンギーは、謎への触媒としての言語をぎりぎりまで排除し、デ・キリコが顕在化させたイメージの領域を極限化する。
 形而上絵画において、事物を結びつける意味連関の収束点(究極的なシニフィエ)が失われた。これにより、そこにあった意味連関もまた崩壊し、世界は謎となった。だが、それでもまだ事物の名は残っている。描かれた事物たちが総体として名指せない何かを現出させるとしても、事物一つ一つを名指すことはできる。
シュルレアリスムにおいてもそれは同様である。シュルレアリスムの実践はしばしば解釈という形を取る。このため、イメージを構成する個々の要素はある程度まで言語と等価、つまり、名指しうるものでなければならない。そうでなければイメージを言語と交換することはできず、それによって交換不可能な謎を生じさせることもできない。
これに対して、タンギーの描く不定形の存在たちは名を持たない。それらを「~のようだ」と形容することはできるが、「~である」と名指すことは決してできない。何故か。一つには、それが不定形だからであり、もう一つには、同時にそれが確固たる三次元的イリュージョンだからである[xiii]
定形を持つものは、明確に分節され固定されている。これに対して不定形のものは、分節が曖昧であり流動的である。形の曖昧化は、意味と自己同一性の曖昧化につながる。ジョルジュ・バタイユが述べるように、不定形は宇宙の分節を解体する[xiv]。不定形のものは、言語を逃れ、名を逃れようとする。
とはいえ、タンギーの世界はバタイユの不定形とは一致しない。どちらも、同一化不可能で名指せない何かではあるが、バタイユの不定形は必ずしも形態としてのそれではなく、価値下落の操作である[xv]。不定形のものは、低いもの、価値のないものと同義であり、昇華不可能な物質的実在である。これに対して、タンギーの世界は、確固たる三次元的イリュージョンを伴っており、いわば実在からイメージへと昇華されている。
だが同時に、まさにそのことによっても、タンギーのイメージは名指せない。たとえばアルプやミロのイメージも不定形化によって名を逃れようとするが、名が完全に失われているわけではない。むしろそこではイメージの平面性、抽象性が強いため、逆にわずかな要素によって名は残存しうる。いってみれば、両眼を示す二つの点が加えられるだけで、アルプの不定形態は「人間」という指示対象を持ちうる。この意味でアルプやミロのイメージは文字記号に近く、やはりある程度まで言語と等価である。そこで問題となっているのは名の消去ではなく、名の変形、名からの距離である。逆にいえば、名が完全に失われた場合、イメージは純粋抽象へと傾き、物質的実在としてのそれ自身に向かってしまう。
一方タンギーは、アルプやミロとは異なり、これを三次元的イリュージョンによって描き出す。三次元的イリュージョンである以上、タンギーの世界は何らかの指示対象を持つはずである(それが実在するという意味ではない)。だが、そこに描かれているものが不定形である以上、それを「~である」と名指すことはできない。アルプやミロのイメージは、不定形であっても三次元的イリュージョンでないため、他の記号へと容易に変換されうるが、タンギーの場合、それは不可能である。タンギーのイメージは描かれたそれ自身である以外にない。
こうして、タンギーのイメージは、名を消去し、言語との交換不可能性を徹底する。そこに残存する言語的要素は、遠近法という統辞構造と、作品の内と外の境界に付与されたタイトルだけとなる。同時にタンギーのイメージは確固たる三次元的イリュージョンであるため、物質的実在としてのそれ自身とも完全に分離している。つまり、タンギーの世界は、言語にも物質的実在にも還元できないイメージの領域を純化したものとなっている。
もちろん、不定形態を三次元的イリュージョンによって描いたのはタンギーだけではない。ピカソやダリ、マグリットにそうした例を見出すことはできる。だが、それらは言語と交換可能である。ピカソが現実の指示対象を手放すことは決してなく、ダリのイメージもまたダリ自身の個人的言語と交換可能である。マグリットの場合、不定形態自身は名を持たないことがあるが、その他の要素が言語と等価であるために、逆に「言語化できないもの」という意味を担わされ、恣意的な名を付与される。

さらにジャコメッティは、不定形態を象徴的オブジェとして物質的実在に変え、アルプもまた一九三〇年代になってこれを彫刻として実体化させる。タンギーは形式的側面ではこうした流れに大きく影響を受けている。ダリの登場や、ジャコメッティやアルプによる不定形態の実体化は、タンギーのイメージの洗練化、明確化を促した。しかし、タンギーは自らのイメージを解釈したり、彫刻として実体化したりはしない。タンギーは不定形の存在たちの世界をただ黙々と、繰り返し描き続ける。それによってタンギーの世界はますます外部の文脈から遠ざかり、それ自体の中に孤立する。イメージが一つ描かれるごとに、言語との交換不可能性が一層増大することになる。


[図4]イヴ・タンギー《弧の増殖》(1954)


一九四〇年代を通じ、タンギーの存在たちは巨大化、硬質化、複雑化し、全体として次第に過剰なものと化していく。このイメージの過剰は、一九五四年、《弧の増殖》で頂点に達する[図4]。画面を埋め尽くした存在たちには、もはや行き場がない。そして、おそらく最期の作品である《想像上の数》で、世界が暗転する[図5]。画面を覆っていた存在たちの一部が消滅し、そこに暗い虚無が露わになる。翌年、タンギーはこの世を去った。


[図5]イヴ・タンギー《想像上の数》(1954)

「弧の増殖」は、タンギーのタイトルとしては珍しく直接的な読み方ができる。タンギーのイメージは名指せない。このためタイトルは隠喩的なものとならざるをえない。しかし「弧の増殖」は、「弧」、つまり曲線状のものが、画面一杯に「増殖」しているという、イメージをそのまま形容したものとも取れる[xvi]。さらに「弧」が不定形の存在たちを指すとすれば、タンギーの世界の生成は、まさに「弧の増殖」と言い表すことができる。
そして「弧」はアーチのことでもある。デ・キリコのアーチは記号の孤独を象徴していた。だから、タンギーの世界の生成は「アーチの増殖」あるいは「アーチの積」であり、つまり、記号の孤独の培養である[xvii]。デ・キリコは形而上絵画によって世界を無意味として描き出した。究極的なシニフィエを失った世界は謎となり、イメージの領域が顕在化する。デ・キリコのイメージに出会い画家となったタンギーは、デ・キリコの謎を純粋な形で自己増殖させ、イメージの領域を極限化させた。
 もう一つのタイトル「想像上の数」は、虚数を意味する。虚数とは、i²=-1によって定義される虚数単位iと、実数aとbからなる複素数abiにおいて、実数とならない(bがゼロでない)もの、つまり、概念上でのみ存在しうる数である。それは確かに、デ・キリコが指し示した形而上的な無意味、タンギーによって純化されたイメージの領域の正確な比喩となっている。それはやはり、言語や概念によっては、ただ指し示す以外にない。アーチの増殖は極限化の果てに、自身の起源である形而上的な虚無へと辿り着いた。

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文献略号


  •   Bataille (1929): Georges Bataille, “Informe,” in: Documents, vol.1, no.7, décembre 1929, p.382(ジョルジュ・バタイユ著、片山正樹訳「不定形」『ドキュマン』二見書房、1974pp.96-97.
  •   Clair (1983): William Rubin, Wieland Schmied, Jean Clair (eds.), Giorgio de Chirico (exh.cat.), Centre Georges Pompidou, Paris, 1983.
  •   De Chirico (1962): Giorgio de Chirico, Memorie della mia vita, Rizzoli, Milano, 1962(ジョルジョ・デ・キリコ著、笹本孝、佐々木菫訳『キリコ回想録』立風書房、1980.
  •    De Chirico (1985): Giorgio de Chirico, Maurizio Fagiolo (ed.), Il meccanismo del pensiero. Critica, polemica, autobiograpfia 1911-1943, Giulio Einaudi, Torino, 1985.
  •    Krauss (1981): Rosalind Krauss, “The Photographic Conditions of Surrealism,” in: October, no.19, Winter 1981, pp.3-34, reprinted in; Rosalind Krauss, The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths, The MIT Press, 1985ロザリンド・クラウス著、小西信之訳「シュルレアリスムの写真的条件」『オリジナリティと反復』リブロポート、1994pp.74-95.
  •    Krauss (1997): Yves-Alain Bois, Rosalind Krauss, Formless: A User’s Guide, Zone Books, 1997(イヴ‐アラン・ボワ、ロザリンド・クラウス著、加治屋健司、近藤学、高桑和巳訳『アンフォルム ―― 無形なものの事典』芸術論叢書、月曜社、2011.
  •    Nietzsche (KGW): Friedrich Nietzsche, Giorgio Colli, Mazzino Montinari (eds.), Nietzsche Werke: Kritische Gesamtausgabe, Walter de Gruyter & Co., 1967-『ニーチェ全集』白水社、全24112巻、第212及び別巻、1979-1987.
  •    Schopenhauer (SW): Arthur Schopenhauer, Paul Deussen (ed.), Sämtliche Werke, R.Piper, 1911-『ショーペンハウアー全集』白水社、全14巻及び別巻、1996 *ただし底本は異なる).
  •    Sweeny (1946): James Johnson Sweeny, “Interview with Yves Tanguy,” in: The Museum of Modern Art Bulletin, vol.13, nos.4-5, The Museum of Modern Art, New York, 1946, pp.22-23.
  •    Tanguy (1954): “The Creative Process,” in: Art Digest, vol.28, no.8, New York, 15 January 1954, pp.14-16.
  •    Weininger (1920): Otto Weininger, Über die letzten Dinge, Wilhelm Braumüller, Wien und Leipzig, 1920 [6th edition, 1st edition: 1904].




[i] Giorgio de Chirico, “Méditations d’un peintre,” in: De Chirico (1985), p.32.
[ii] De Chirico (1962)(邦訳pp.52-53, 59, 62-63.
[iii] Giorgio de Chirico, “Noi metafisici…,” in: Cronache d’attualità, febbraio 1919, reprinted in: De Chirico (1985), pp.68-69. デ・キリコの無意味については本ブログの論文「ジョルジョ・デ・キリコと生の無意味」を参照。
[iv] Friedrich Nietzsche, Menschliches, Allzumenschliches , vol.1, ch.1, §.9, in: Nietzsche (KGW), vol.IV-2, pp.25-26(邦訳第一期第六巻、p.34.
[v] Arthur Schopenhauer, Parerga und Paralipomena: Kleine Philosophische Schriften, vol.2, ch.1, §.1, in: Schopenhauer (SW), vol.5, p.7(邦訳第十二巻p.11.
[vi] Friedrich Nietzsche, Menschliches, Allzumenschliches, 1878-1879, vol.2, pt.1, no.22, in: Nietzsche (KGW), vol.IV-3, p.24(邦訳第一期第七巻、p.32.
[vii] Giorgio de Chirico, “Sull’arte metafisica,” in: Valori plastici, vol.1, nos.4-5, aprile-maggio 1919, reprinted in: De Chirico (1985), p.86.
[viii] Ibid., p.88.「装飾としての円形アーチは美しくありえる。というのもそれは、世界を取り巻くミドガルドの蛇のような、もはやどんな批判の余地もない、完全な完璧さを意味しないからである。アーチの中には未だ未完成なものがあり、そこには完成の必要と可能性がある。そこには未だ予感がある。だからこそ指輪はまた常に、非倫理あるいは反倫理的なものの象徴である」。この箇所はヴァイニンガーの遺稿集『至高の事物について』に収録されている「時間の単一方向性について」からの引用。Otto Weininger, “Über die Einsinnigkeit der Zeit: und ihre ethische Bedeutung nebst Spekulationen über Zeit, Raum, Wille überhaupt,” in: Weininger (1920), p.100.
[ix] De Chirico (1962)(邦訳pp.97-98.
[x] Sweeny (1946).
[xi] シュルレアリストたちによるデ・キリコに関する言説は以下にまとまって抜粋されている。Clair (1983), pp.257-287.
[xii] Krauss (1981).
[xiii] 本ブログの論文「イヴ・タンギーとシュルレアリスムの視覚イメージを参照。
[xiv] Bataille (1929).
[xv] Krauss (1997).
[xvi] ちなみに「弧」という語は、一九四五年の《飛ぶ弧L’arc volant》、一九四七年の《太陽の弧L’arche du soleil》にも見出される。
[xvii] タンギーの晩年の親しい友人の一人に、形而上絵画時代のデ・キリコについて最初のモノグラフを書いたニューヨーク近代美術館のジェイムズ・スラル・ソビーがいた。James Thrall Soby, The Early Chirico, Dodd, Mead & Co., New York, 1941; Giorgio de Chirico, The Museum of Modern Art, New York, 1955. タンギーはソビーを通じてデ・キリコについての情報を得ることができたはずである。また死の前年、一九五四年のアンケート回答では、好きな画家として、同時代ではただ一人形而上絵画時代のデ・キリコを挙げている。Tanguy (1954).








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