Giorgio de Chirico, Giovanni Lista (ed.), L’art métaphysique, L’échoppe, 1994,
pp.84-87.
XIV.
ある画家の瞑想
未来の絵画とはどのようなものでありうるか[Que pourrait être la
peinture de l’avenir]。
未来の絵画の目的とは何か?詩、音楽そして哲学と同じものだ。それ以前には知られていなかった感覚を与えること、慣習、規則、主題と美的綜合への傾向を未だに含みうる全てを芸術から取り去ること。指標としての人間、象徴、感覚、思考を表現する手段としての人間を完全に排除すること。彫刻を今なお束縛するもの、つまり神人同形論からきっぱりと自由になること。全てを、人間さえも事物[chose]としてみること。これがニーチェの方法である。絵画に応用されれば、途方もない結果をもたらすだろう。これこそ私が自分のタブローにおいて証明しようとしていることなのだ。
ニーチェがスタンダールを読み、あるいはカルメンの音楽を聴いて感じた喜びについて語るとき、もしその人が心理的洞察力に富んでいるならば、彼の言わんとすることが感じ取られる。つまり、それはもはや一冊の本ではなく、もはや一曲の音楽でもない。それはある感覚を与える一つの事物[chose]なのだ。人はこの感覚を吟味し、判断し、より知られている別の感覚と比較する。そしてこちらの感覚を選択する、というのもそれがより新しいことが分かるからだ。
真に不滅な芸術作品は啓示によってのみ生まれることができる。おそらくショーペンハウアーこそ、このことを最もうまく定義し、そして同時に、当然ながら、最もうまくそうした瞬間を説明した人物である。彼は『余録と補遺[Parerga und Paralipomena]』において次のように述べている。「独創的で、非凡で、ことによると不滅でさえある着想を得るためには、しばらくの間、世界と事物から完全に隔絶し、そうして最も平凡な事物や事象が全く新しく未知のものとして現れ、その本質を開示させるようにすればよい」。ここで、独創的で、非凡で、不滅である[originales,
extraordinaires, immortelles]着想の誕生の代わりに、芸術家の思考の内に芸術作品が、絵画あるいは彫刻が生まれるのを思い浮かべてみて欲しい。絵画における啓示の原理が得られることだろう。
こうした全ての疑問に関連して、私はここで、今年のサロン・ドートンヌに展示した《秋の午後の謎[L’Énigme d’un après-midi d’automne]》と題されたタブローの啓示をどのように得たかについて述べよう。ある澄み切った秋の午後、私はフィレンツェのサンタ・クローチェ広場の真ん中にあるベンチに腰掛けていた。もちろん、私がこの広場を見たのははじめてのことではなかった。私は長く苦しい腸の病から抜け出したばかりで、感覚はほとんど病的な状態にあった。自然の全て、建築物の大理石や噴水までもが、私には病み上がりのように思われた。広場の中心には、長いマントを羽織ったダンテの像が立っており、自分の著作を自分の体にしっかりつけるように握り締め、月桂樹をかぶった物思わしげなその頭を地上に向けて傾けていた。その像は白い大理石で出来ていたが、時間が灰色の色調を与えており、見る目に快かった。生ぬるい秋の太陽が、容赦なく[sans amour]彫像と教会のファサードを照らし出していた。そのとき私は、全てを初めて見ているのだという奇妙な印象を持った。そして作品の構成が心に浮かんだ。私はこの絵を眺めるたび、この瞬間を思い出す。とはいえ、この瞬間は私にとって一つの謎だ、というのもそれを説明できないからだ。そこから生じた作品も私はやはり謎と呼びたいと思う。
音楽は感覚の極み[nec plus ultra de la sensation]を表現することができない。音楽について我々は、何が問題になっているのかを決して知ることができない。どのような音楽を聴いた後でも、各人には次のように言う権利があり、言うことができる、それは何を意味しているのか?と。これに対して深遠なタブローについてそのように言うことは不可能だろう。その全き深遠に入り込むとき、人は沈黙を守らなければならない。そのとき光、影、線、角度、立体感の神秘の全てが語りはじめる。
芸術作品(絵画あるいは彫刻)の啓示は突然に、全く予期しない時に生じうる。また啓示は何かを目にすることでももたらされる。 ―― 前者の場合、啓示はある種の稀で奇妙な感覚に属しており、私としては、その感覚を現代人の中ではただ一人、ニーチェにおいてのみ見出した。過去の人々の中では、おそらく(おそらくというのは、時折私はこれを疑うからだが)パラス・アテネの造形を考案したフェイディアス、ミラノのブレラ美術館にある《聖母の結婚Mariage de la Vierge》の空と教会を描いたラファエロ、この二人がこのような感覚を抱いた。ニーチェが彼のツァラトゥストラの着想について語る時、彼はこう言う、私はツァラトゥストラに不意に襲われた[surpris]のだと。この分詞「不意に襲われた(驚かされた)[surpris]」の中に、不意に生じる啓示の謎の全てがある。
啓示が事物のある種の配置から生じる時、ということは私の思考に生じる作品は、その誕生をもたらしたものと密接なつながりを持っているということである。前者は後者に似ている、だが非常に奇妙な形で似ているのである。二人の兄弟の間にある類似のように、あるいはむしろある人物の夢の中におけるイメージと、現実におけるその人物との間にある類似のように。つまりそれは、同時に同じ人物ではないということだ。その相貌にわずかな、そして神秘的な変形があるかのようなのだ。私が思うに、夢の中でのある人物の相貌は、ある種の観点において、その人物の形而上的現実性の証明なのだから、芸術作品の啓示とは、同様の観点において、時折我々に起こるある種の偶然の形而上的現実性の証拠なのである。特定の仕方で、配置で、時折何か[quelque chose]が我々の視界に現れる。そして我々の中で芸術作品のイマジネーションが生じる。そのイマジネーションは我々の魂の内に、時折驚きを、とりわけ瞑想を、常に創造の歓びを呼び覚ます。
Georgio [sic] de Chirico