2013/06/02

ジョルジョ・デ・キリコ「手稿(1911-1913) VIII」 Giorgio de Chirico, "Textes Manuscrits (1911-1913) VIII."

Giorgio de Chirico, Giovanni Lista (ed.), L’art métaphysique, L’échoppe, 1994, pp.70-71.


VIII.

 ―― オプティミスムについて ――
生を一つの巨大な過ちとみなす人には、ギリシャ人の至るところにオプティミスムの精神が見える。これは思想家や学者が相変わらず犯していることで、常に一部の心理学に由来している。彼らが一度本当に何かを理解[comprendre]するためには、彼らの心理学に付け加える必要があるだろう。ある人間もしくはある人々が生に抱いている観念は常に、彼が彼岸について抱いている観念によって判断できる。
最も愚かなペシミストであるような人間は、楽園を、永遠の幸福を、永遠の至福[béatitute](凡庸さ[platitude]と読むこと)を創り出すだろう。そのようにギリシャ人は考えたし、キリスト教徒は考える。 ―― 反対に、最も聡明なペシミストは、彼岸を見つめる人々に対して、無[néant]について考える、たとえばブッダやショーペンハウアーがそうである。だが、ブッダであろうとキリスト教徒であろうとペシミストであることに変わりはない。現在、深遠な人間の、全ての問いに対する立ち位置[position]はどこにあるのか。それは当然、全ての立ち位置の彼岸にあり、むしろ一つの立ち位置ではなくなることによってはじまるだろう。新しい幸福と新しい奇妙さを常に探し求めて世界を別の[autre]仕方で見ること、そうして感じられる確かさと歓喜の中で、抽象的なものは、孤独で永遠なものとなる。生が良きものか、そうでないかといった考えは、彼にとって考えの外のものとなる。というのも、生が深遠なものとなった時、私が既にその意味を述べた理由により、生は良きものでも悪しきものでもなくなるからだ。良い[bon]と悪い[mal]という語は生には適用されえない、それが純粋に人間的で、一般的に理解可能な観点において捉えられる限りは。だがこの範疇から抜け出すや否や、生は永遠のものとなる。そして永遠性は良きものでも悪しきものでもない、空虚[vide]が色も香りも持たないことと同じである。

このような仕方で思考することに慣れて後でのみ、人間はこう述べる権利を持つ、私は深遠だ、と。そしてその時になってやっと、もし彼が創作をするなら、その創作物は、全ての他の価値の永遠性に加わって、偉大で永遠な価値を持つだろう。そしてその時になってやっと、彼は詩人になりうるだろう。以後、彼は如何なるエコーが彼の歌を呼び覚ますかを知るだろう。悲しいかな、人間たちが行ってきこと、未だ行っていることの全ては。それは太陽の光で干からびてしまい、風の一吹きで散らされてしまう一掴みの泥である。


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