Giorgio de Chirico, Giovanni Lista (ed.), L’art métaphysique, L’échoppe, 1994, pp.74-75.
X.
音楽の問題点[Point de musique]。音楽は感覚の極み[nec plus ultra de la sensation]を表現することができない。音楽について我々は、何が問題になっているのかを決して知ることができない。そして結局のところ、それがベートーベンであろうとワーグナーであろうとロッシーニであろうと、あるいはサン‐サーンス氏のものであろうと、音楽作品を聴いた後で各人には次のように言う権利がある(言うことさえできる)、それは何を意味しているのか?[qu’est-ce que cela veut dire]と。これに対して深遠なタブローについてそのように言うことは不可能だ。タブローの架かっている諸々の壁だけではなく、全ての壁の角度を変えるとき[quand on tourne l’angle de tous ses murs et pas seulement de ces
murs]、その深遠に入り込むとき、人は沈黙を守らなければならない。 ―― そのとき、光と影、線と角度が語りはじめる、そしてやはり音楽が聴こえてくる、聴かれることのない隠された音楽が。
―― 我々が耳にするものには何の価値もない。我々が目を開いて、そしてむしろ目を閉じて見るものにだけ価値がある。音楽の中に神秘はない。だからこそ美術が最も多くの人々に好まれるのであり、彼らはそこに常により多くの感覚[sensation]を見出すのである。私はといえば、昨日の夜それを感じた。深遠で静寂な仕方で、恐ろしい仕方でそれを感じたのである。おそらく、それを一つの真理[une verité]と名づけなければならないだろう。
―― だがそうした真理たちは語ることがなく、声も持たない、まして歌うこともない。だがそれらは時折見つめてくるのである、そしてその視線に対しては、頭を垂れてこう言うしかない、そう、その通りなのだ[oui, c’est comme ça]、と。結果として生じるもの、たとえばタブローは、常にある音楽を有することになる。それはむしろある必然性であり、無数の魂と無数の側面を持つ全ての事物の神秘的な運命なのである。私はといえば、昨日の夜にそれを感じた。絵画、深遠なる絵画を、私のタブローの内に。食事の終り、あるいは折れ曲がった光の音楽[la fin du repas ou la musique de la lumière brisée]、音楽の彼岸にあるあの感覚は炎の文字で刻まれていた。 ―― 音楽は彼岸にある何かに留まっている。それは食事の前に、あるいはその後に取るものではあるが、それ自身では食事をなさないのだ。それ自身で食事をなすもの、それは謎だ。結局のところ私は、それについて長く考えようと思っている人々に助言することはできない。というのも、その午後の生暖かさにも拘らず、謎は凍り付いているからだ。だがそれを理解したとき、どれほどの歓びを、人々よ[grand monde]、どれほどの歓びを、謎よ、お前は与えてくれるだろう。それは生なのか?あるいはその反対なのか、あるいはどちらでもないのか?ともかくそれは私を幸福にした。それがはるかに良いことであることだけを私は望む、結局それがおそらくは別のものであることよりも、そしてやはりおそらくは・・・・・・[je ne voudrais que cela fût autrement
bien que qui sait après tout peut-être que cela est autrement et peut être
aussi que…]。
G. C.
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