Giorgio de Chirico, Giovanni Lista (ed.), L’art métaphysique, L’échoppe, 1994, pp.77-79.
XII.
ミュンヘンのアカデミーを離れた後、私は自分の辿って来た道が、自分の辿るべき道ではなかったことに気付いた。私は曲がりくねった道に入り込んだ。まず、幾人かの現代画家たち、とりわけマックス・クリンガーとベックリンが私を魅了した。私は奥深い感覚を伴った[senties]それらの作品に思考を巡らせた。それらは特殊な雰囲気[Stimmung]を持っており、私は他の大勢の画家たちの中からそれを認識した。
―― だが私は再び、それは私の道ではないということを理解した。私は本を読んだ。ホメロスの一節が私を魅了した。
―― カリプソの島のオデュッセウス
―― 幾つかの光景とタブローが私の前に現れた。
―― そうして私はついに何かを見つけたという感覚を得た。またアリオストとロジェをよく読んだ。あの放浪の騎士の典型は木の下で休み、眠りにつく、馬は彼の周囲にある草を食む、全ては孤独と静寂の内にあり、竜が空中を通り過ぎるのが見えるような気がした。こうした光景は私を魅了した。騎士が、馬が、風景が突然想像された。それはほとんど啓示だった。だがそれでもまだ十分ではなかった。マンテーニャ、デューラー、ベックリン、トマ、あるいはマックス・クリンガーもまたそうしたタブローを描くことができなかっただろうか?必要なのは何か新しいものだ。そうして、それは十月のローマ旅行の最中のこと、私はフレデリック・ニーチェ[Frédéric Nietzsche]の作品を読んだところだった。私は多くの奇妙な、未知な、孤独な事物があることに気付づいた、それは絵画に表現しうるものだった。こうして私の最初の啓示がはじまった。私は以前ほどデッサンをせず、少々忘れてしまっているほどだったが、デッサンをするときは常に必要性に迫られてのことだった。そうして私は以前には理解できなかったあるぼんやりとした感覚を理解した。この世界の事物たちが時折有する言語。一年の様々な季節と一日の様々な時間。同様に歴史上の様々な時代。
―― 先史時代、時代を通しての思考の様々な革命、古典時代、中世、現代、全てがより奇妙で、より遠くに思われた。私の想像力にはもはや主題は無く、私の作品はもはや一切の意味[sens]、とりわけ一切の常識[sens
commun]を持たなかった。それらは静謐である。 ―― だがそれらの作品を目にする度、私はそれらの着想を得たときのことを正確に感じられる。このことは、それらの作品が持つ深遠な価値の最も反論のできない証拠である。
とりわけ必要なのはある偉大な感覚である。世界の全てを謎として思い描くこと。人が常に抱く大きな疑問、何故世界は創造されたのか、何故我々は生まれたのか、何故生きるのか、何故死ぬのかといった疑問だけではなしに。というのもおそらく結局は、私が既に述べたように、そこには何の理由もないからだ。とはいえ、一般に取るに足らないとみなされている種々の事物の謎を理解することだ。感覚の種々の現象の、人々の性質の、その神秘を感じることだ。創造的天才さえも事物として思い描けるようになること、非常に好奇心をそそるが故に我々がその全ての側面をひっくり返すような事物として。奇妙な事物で満たされた壮大な博物館の中にいるように、世界の中で生きること。そこには好奇心をそそる、雑多な玩具が満たされている。それらは外観を変える。というのも時折我々は、小さな子どものように、その中がどうなっているかを見るためにそれらを壊してしまう。 ―― そして失望するのだ、それらが空[vide]であることに気付いて。 ―― 人々をその創造物に結びつける見えないつながり。 ―― たとえば何故、フランスの家々はあのような建築であって他のようではないのか。歴史を引用しても無駄なことだ。そこにあるあれこれの理由を人は記すが、何一つ説明しない。説明すべきものなど何もないという永遠の理由によって。だが謎はいつまでも残る。 ―― パリの家々の屋根にあるあの小窓[lucarnes]は、常に私に奇妙な印象を与える。私としては、建造物にあの小窓[lucarnes]を付けさせる、そう感じさせる[sentir]、未知の力があると信じる。私としては、この小窓とフランス兵の赤いパンタロンとの間にあるつながりを見る。この種の革命やその他無数の事々についてやはり私は説明をしない、全ての人々に対しても、全ての時代に対しても、全ての国に対しても。私があらゆるあの奇妙な事物たちについて述べてきたのは、一人の芸術家が、この私が言わんとする一枚のタブローについて理解するためには、どれほどの知性と感性に到達しなければならないかを示すためである。
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