Giorgio de Chirico, Giovanni Lista (ed.), L’art métaphysique, L’échoppe, 1994, pp.72-73.
IX.
真に不滅な芸術作品は、人間的限界を完全に超えていなければならない。つまり良識や論理はそこでは欠点となるのだ。 ―― この意味で、そうした芸術作品は夢や子どもの精神に近づくことになるだろう。
私は思い出す。ニーチェの永遠の作品『ツァラツゥストラはこう語った[Ainsi parlait Zarathustra]』を読み終えた後、この本の様々な部分に、ある印象をおぼえた。その印象とは、私が子どものときに読んだ、イタリア語で書かれた子どもの用の本に既に感じとっていたものだった。その本は『ピノッキオの冒険[Le aventure di Pinocchio]』と題されていた。作品の深遠さを我々に啓示する奇妙な類似である。このことは無邪気さとは何の関係もない、素朴な芸術家の無邪気な魅力とは何の関係もないのだ。この作品はある奇妙さを持ち、その奇妙さは、子どもの感覚が持つことのできる奇妙さに近づくのだが、同時に作者が故意にそうしているのが感じられる。同様に、私が思うに、真に深遠な一枚のタブローはこの領域に到達しなければならない。ベックリンとプッサンは絵画においてそのぎりぎりの限界に到達した。努力を続けることだ、そうすれば絵画もまた、我々を全ての絵画の彼岸へ[au-delà de tous les
tableaux]と導くタブローを得ることだろう。
自然への観想は、ゴシック[gothique]芸術を創出した芸術家を、中世を通じて欺いた。同じ現象は、現代の全ての芸術家、詩人、画家、音楽家にも認めることができる。真に深遠な芸術作品は、芸術家によって、その存在の最も深い深遠から汲みだされるだろう。そこには小川のざわめきもなく、鳥の歌声もなく、枝葉のざわめきもない。ゴシックとロマン主義は消え失せる。そしてその場所に、寸法[dimension]が、線が、永遠と無限のフォルムが現れる。ギリシャ建築を導いていたのは、この啓示的感覚であり、同じ感覚がローマ建築を創り出すだろう。何故なら、私が思うに、ギリシャ、ローマの建築と、ローマ人がギリシャ人の原理(若干変形させられていたが)に則って創りだしたもの全ては、芸術[art] において最も深遠なものだからだ。
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