2013/05/31

ジョルジョ・デ・キリコ「手稿(1911-1913) VII」 Giorgio de Chirico, "Textes Manuscrits (1911-1913) VII."

Giorgio de Chirico, Giovanni Lista (ed.), L’art métaphysique, L’échoppe, 1994, pp.68-69.


VII.

印象主義と感覚主義[Impressionnisme et sensationnisme]。 ―― 優れた道を歩んでいるあのフランスの印象主義の画家たちを、私はむしろ感覚主義者たち[sensationnistes]と呼びたい。私が思うに、彼らは同時代の詩人や作家たちのはるか先を行っている。 ―― とにかく彼らが行っていることには全ての現代文学よりもはるかに新しいものがある。今から私は、現代絵画一般が私に与える印象と比較して彼らの作品について述べる。しかしながら付け加えておかねばならないのは、たとえ彼らが歩んでいる道が優れたものだとしても、それは私が私自身であるところのものとはまったく対照をなしているということだ。というのも私が思うに、一枚のタブローは常に深遠な感覚の反映であること、深遠さとは奇妙さを意味すること、奇妙さとは非凡さ、あるいは全くの未知を意味することを決して忘れてはならないからである。さて印象主義者たちの方法の手順とはどのようなものか。彼らはあるものを見る。たとえば一つの風景を、一人の人物を、一つの静物を。そして彼らは、ある種のテクニックによって彼らが見たものを模倣することで、彼らの絵画を見る者に、ある感覚を与えようとする。その感覚とは、彼らが再現した当のもの、自然の中に見られた物そのものでは与えることができない感覚である。このようにしてセザンヌ氏は、一つの静物を、トマトやあるいは果物の乗った格子縞をした一枚のタオルを描くことで、我々にある感覚[une sensation]を与えることに成功している。その感覚は美術館にあるどの静物画も我々に与えることができないものである。美術館では果物も野菜もはるかに本物らしい[vrais]のに。もちろんこれは、一般的に解される迫真性の意味において、であるが。 ―― このような[印象主義の]絵画が一般に描かれている絵画よりも優れていること、それは確かである。しかしながら、このような絵画の全てには、残念ながら限界がある。正直に言うならば、こうした芸術の考え方においては、画家がなすことの内で、しばしば(常にとは言わないが)偶然が大きな役割を果たしているのである。
私が感じ、そして仕事をするやり方においては、別のことが重要になる。主な役割を果たすのは常に啓示である。我々が何かを見ることもなく、何かを考えることさえなく、タブローが我々に自らを啓示する。また同様に、何か[quelque chose]を目にすることがタブローを我々に啓示する。だがこの場合、タブローはその啓示を引き起こしたもの[chose]の忠実な再現ではないだろう。とはいえタブローはその啓示を引き起こしたものに漠然と似ているだろう。夢の中で見るある人物と現実における[dans la realité]その人物の相貌のように。こうしたこと全てはテクニックとは何の関係もないだろう。全ての感覚[sensation]はそのタブローにおける線の構成[composition]によって与えられるだろう。タブローはこの場合、常に不変な何か[quelque chose d’immuable]の印象をなしており、そこに偶然は一切なかったのである。

G. C.


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