Giorgio de Chirico, Giovanni Lista (ed.), L’art métaphysique, L’échoppe, 1994,
p.63-64.
IV.
ニーチェは非常に正当にもこう述べている。「人はある人間についてこれ以上ない尊敬をこめて言う、“立派な人物だ!” ―― 確かにそうだ!もし彼が粗雑な論理、最も洞察力の無い人間の目にも止まる論理をひけらかすのであれば!だが、その態度、その優れた態度に首尾一貫する、より捉え難い、より深い精神が問題となるや否や、見物人たちは立派な人物の存在を否定する」。
同じ考察を芸術と絵画にも当てはめることができる。 ―― 深遠なタブローは、こうした理想主義の大袈裟な身振りを欠いていることだろう。この種の理想主義は群集の視線を集め、芸術家の名前を強調する。
―― 全てのひきつった顔、全てのわざとらしい身振りは脇に置いておかれるだろう。落ち着き、静けさ、静謐さそのもの、だがこの静謐さの中には、永遠の嘆きの中にあるように、これまで知られてきたパトス[pathos]の全てが凝縮されている。つまり、人間が知ってきた全ての偉大さ、全ての崇高さ、彼らの精神、彼らの迷い、彼らの歓びと彼らの苦悩、友情、そして愛が、混ざり合って音楽をなしているだろう。だが、次に、このような芸術作品の真の価値をなすもの、それは新しい歌だろう。というのも、何よりもそれは常に、芸術家が無[néant]から引き出す新しい何か、つまり、それまで存在しなかった[n’existait pas]何かだからである。
夏の夜[Le Soir d’été]
昨日、私はヴァン・ゴッホのタブローを見た。 ―― 一枚の風景画、まぐさの束、背景に一つの山、夏の暑く重苦しい夜。山の向こうには赤く大きな月が出ている。 ―― とても暑い夏の夜には、悲痛な嘆きのようなポエジーがある。このタブローの中にはそうしたポエジーが感じられる。同じポエジーを、ラボー氏の『ロランの娘』[La fille de Roland de M.
Raboud]のとりわけよく知られた音楽にも感じることができる。「デュランダルの[助け]によって喜びという女性と結婚せよ」
―― 美しく、恐ろしく、深遠な何かだ。同じものを私はティツィアーノのタブローの幾つかにも気づいた。
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